2007年1月4日〜3月13日

2007/1/4 (2nd) 「弱さ」

 大好きなお菓子が目の前にあるとします。あなたはそのお菓子が大好きです。どのくらい好きかというと、 太るとわかっていても、ついつい手を伸ばしてしまうほど好きです。しかしそのお菓子はただのお菓子ではなくて、食べると一日の十二分の一時間 を一瞬にして「消費したことに」なってしまうという瑕瑾があります。

 「私はお菓子が大好きだけど、そのせいで徒に歳をとるのはイヤだ」、と思ったあなたは、 次に、お菓子を戸棚に隠して、自分の目に付かないところに置くことで、お菓子を食べないようにすることを思いつきます。 さすがにお菓子をゴミ箱に捨ててしまわないのは、食べ物を粗末にしないというお婆ちゃんの言葉を思い出したからです。

 しかし、いくらお菓子を目に付かないところに置いていても、お菓子を隠したのは自分です。隠し場所をしっているあなたは、 お菓子のことがチラチラと頭に浮かんで、ふとした瞬間に「まあ、いっか」と思い、大好きな戸棚のお菓子に手を伸ばしてしまいます。

 捨てるのはもったいない、だからといって、隠してもムダ。気がつくと、あなたは自分の大好きなお菓子以外にも、 そうした「お菓子のようなもの」がたくさんあって、そんな数々の誘惑にかまけて時間をムダ使いしている自分を見てしまいます。 そしてあなたはどうなったか?当然のことですが、ひどく落ち込んでしまいます。

 次にあなたがすることは、一心不乱に、片っ端から身の回りの誘惑を、自分の目の届かないところに隠してしまうこと。 部屋はガランとして、一見あなたの誘惑を誘うようなものはもう何一つないかのように見えます。が、隠し場所を知っているのは あなたです。やはり、開けてはいけない戸棚に手を伸ばしてしまう罪深いあなた…。

 どうせ捨てられないようなものなら、最初から隠すんじゃないよ。そんなに気になるんだったら、迷わず捨てろって。 それでもあえて言うけれど、気になるからって捨てるのは、それは取るにたらない雑魚の発想だよな。そんなにカンタンに自分の 弱さを肯定するなというんだ。それに、人のことを誘惑だなんて、彼女に失礼だろうが、バカ。

2007/1/4 「不安2」

 赤ちゃんの姿でこの世に生れ落ちるときに感じる不安というのは、いままで見たこともない世界に 放り出されることからくる。温かい母親の胎内から、不快な外の世界に強制的に放り出された赤ちゃんの小さな 胸のなかで震えるのは、無限に広がる宇宙のなかに漂う、自分といういっこの頼りない魂なんだな。自分で自分が哀れになる。

 成長するにつれて、かつての赤ちゃんは、世界には自分と同じような孤独な魂がたくさん漂っている ことを知る。自分はひとりではない。歓喜する。しかし、再びかつての赤ちゃんは、もう一度、大きな不安と 戦うことを余儀なくされる。それは、いつか?

 それは、自分という領域のなかに、他の複数の魂を養うようになってから始まる。自意識の拡大。守るべきものが 増えるとき、それを失ったときのこと、またその行為の困難さを思い、再びあのときのような不安に襲われる。 いまの俺は、その段階にある。

2007/3/9 「人の業」

 自分の範囲を設定しよう。どこまでが自分で、どこまでが自分でないか。 刀は武士の魂だ、という台詞が時代劇なんかであるけれど、刀が自分そのものである という人がいるように、大切なモノが自分の範囲に入っているようなことがある。

 人の死とは、何をもって人の死といえるのだろうか。普通に、心臓をナイフで刺されて しまうと、出血多量で死んでしまうのが人間だ。つまり、人の死とは、肉体が滅びることで あるのだが、それは自分の範囲が、肉体に限定されていた場合の話である。

 大切なモノに自分の範囲を設定している人は、そのモノが失われたとき、精神的に死ぬ。 自分の存在が、半分もげたようなものだ。しかし、モノは代替できる。折れてしまった刀は、玉鋼という 原料と、腕のいい鍛冶屋がいれば再現できてしまう。

 したがって、代わりのきくものに自分の範囲を設定する人は、見栄っ張りであるか、よっぽどの俗物である。 このお金に命を賭ける、といって大穴を狙う競馬場のオッサンと同類。そんなものは、所詮モノ にすぎない。精神的に、死ぬわけがない。

 モノである限り、再現の可能性はどこまでも否定できない。洞窟にある鍾乳石だって同じ。 もちろん、人の寿命は短いから、鍾乳石が形成される何千年という長い時間を生きることができない という事実は、結果的に再現が事実上不可能であることを示している。けど、それが自分の生きている 間は不可能であるという厳しい現実があっても、何千年か後にまた過去が蘇るという希望がある限り、 人は精神的に死ぬことはないだろう。それは人が、自らの子孫に次代を託すという生物学的行為からもいえる。

 ただし、世の中には取り返しのつかないものがある。生きている人間は、死んだらもう二度と 会えない。これは生きている犬、猫、カエル、ダニ、ウジムシでも同様だ。生き物は取り返しがつかない。 いや、正確には生命工学の発展により、同じ遺伝子をもつ生命の複製は可能である。それでいて、絶望的に 生命に取り返しはつかないと感じてしまうのは、その生命の生きてきた記憶を、人は特別視するためだろう。

 たとえば昨日わたしが、家族とケンカをして、「死んでしまえ」、といって家をでたとする。 そしてその後、地震が起こって家族は生き埋めとなり、今日には自分だけが生き残ってしまった。 せめて「死んでしまえ」と心にもないことを言ったその記憶だけでも、と思い、わたしはきっと後悔して泣くだろう。たぶん、死ぬまで。

 別に死んでしまったのだから、死者が死ぬ直前まで何を思っていたのかなんて、 本来はどうでもいいはずなのに、こんなに悩み苦しんでしまう人間って、いったい何なのか。死んだ人間が浮かばれない、 っていう言葉と同様に、生きているわたしが浮かばれない、っていう台詞がある。 つまり人は、現実にある肉体的な死より、もうこれからさき、記憶の更新ができないという事実、つまり精神的な死のほうを恐れるらしい。

 大切な人が、昨日車に轢かれて死にました。たぶん我々は、かの人の肉体的な死より、死ぬ直前、かの人が どういう記憶をもっていたかを知りたがるだろう。そこに、せめてもの救いを見出そうというのが、生きる人の願いだ。本来、死んだら仕舞なのだが。

 それもこれもいつからか、すべて自分の範囲を誤ってしまったことが原因だ。生まれてきたとき、人は独りである。 仮に母親が死んで赤子が泣くのも、心理学的には自分を扶養してくれるもののいなくなったことに起因している。しかしいつからか、 人は自分の範囲を他人に広げてしまうようになる。大切な人、を増やしてゆく。自ら、精神的に死ぬ機会を作っている。 これは本当に、救いようのない業であるとしか言い様がない。

 誰かが死んでも悲しむこともできず、わたしが死んでも誰も悲しんでくれないなんて、それこそ悲しいことだ って言い方もできる。だとすれば、人は悲しみを恐れて自ら悲しみへと身を投じる存在だと断定してさしつかえない。 これは、ますます救いようのない存在である。

 いつから人は、こんなに阿呆になったのか。思えば、戦争を恐れて戦争をするとかいったように、世界にはこれに 似た構造がいくつもある。

 しかしながら、この矛盾が実に心地よい。この阿呆さが実によい。人間らしさを感じる。自分でそうなるようにしておきながら、 大切な人を失くして、勝手に悲しんでいるその風景が、実に人間らしいのもまた事実。せいぜい、大切な人の記憶を、 壊れないように日々大切に扱ってやることだ。記憶はいつ壊れて、取り返しがつかなくなるかわからない。後悔してからでは、遅い。 そのどうしようもない業を背負って、精一杯生きることだ。たとえ過ちを犯して、取り返しがつかなくなったとしても、強く生きてゆくんだ。

 それが、人のありようってものじゃないか。

2007/1/5 「春日狂騒」

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(?)が深くて、
なほもながらふことともなったら、

奉仕の気持ちに、なることなんです。
奉仕の気持ちに、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
確かにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持ちに、ならなけあならない。
奉仕の気持ちに、ならなけあならない。



奉仕の気持ちになりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前(せん)より、人には丁寧。

テムポ正しき散歩をなして
麦稈(ばくかん)真田を敬虔に編み――

まるでこれでは、玩具の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遭へば、につこり致し、

飴売爺々と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日陰に這入り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

     《まことに人生、一瞬の夢、
      ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、ご機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外(そと)はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国(あっち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美(は)しく、はた俯いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。



ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。





二歳の子供を失った人の詩です。

音楽でもそうなんですけど、悲しみを晴朗さで表現するのって凄いと思う。

相反する二つの感情を合装した作品には陰約があり、ふと心が動いてしまう。

2007/3/13 「悩み」

 憂鬱を感じるとき。それは、自分がコントロールできていないと感じるときだ。 彼女がいつもよりお酒をたくさん飲むようになったから?期末の成績が悪かったから? 部活が上手くいかないから?そんな簡単な理由じゃないだろう。自分としっかり向き合おう。

 彼女がいつもよりお酒をたくさん飲むようになったからではなくて、それは彼女 がいつもよりお酒をたくさん飲むようになったことに、心を乱されている自分がイヤだから。 期末の成績が悪かったからではなくて、たいして努力もしていないのに、自分の能力を 過信していた自分の愚かさを知ったから。部活が上手くいかないからではなくて、何に対しても 本気になれない自分が許せないかったから。素直じゃないと、成長しないよ。

トップへ戻る