ビチャビチャサイト

おもしろい足跡が 人分ありました。

2009/1/1

 あけましておめでとうございます!

 サイトをリニューアルします。 新サイト→Omnia vincit Amor

2008/6/1

 髪が伸びてきたので、数年ぶりに新しい美容院を訪ねてみた。

 市街地のただなかにあって、中心部からはちょっと離れた閑散とした街並みのなかにその店は 景色に同化するようにしてありました。全体的に木材を多用していて、夏は涼しく冬は暖かそうな造りだ。 中に入ると、なんだか東南アジアと西洋をミックスしたような独特な感性を感じさせるインテリアに包まれ、 束の間日常を忘れることができるような気がした。

 僕の担当のお兄さんは、ちょっとチャラそうな人だった。腕ががっしりしていたので、何かされてたのかな、 と思っていたのだけど、話を伺うと大学時分にバレーをしていたそうだ。最初はどうでもいい話をしていたのだけど、 僕が「なぜ、美容師になろうと思ったんですか?」と聞いて、話が一気に真面目なものになってゆきました。

 いわく、本当になりたいものになるべきだ、と。お兄さんは神戸の大学を出たそうだ。普通科高校を出たのだから、 せめて大学は卒業して欲しいという親のたっての願いだったそうだが、美容師になりたいという夢がどうしても棄てきれなかった。 卒業してからは、通信を用いて美容師資格をめざした。

 お兄さんは負けず嫌いだったらしい。そんな精神を培ったのは、バレーを通じてだった。どんな職場にいっても、その精神が 生きるであろう、ということを言っていた。給料だって、他の同級生に比べたら少なくって、どこへ行ってもそういう面では発言権が なくなるそうだ。

 しかし、お兄さんは大学を出て、たくさんの選択肢がある中から、自分の好きな道へと進んだ。だから俺はいまでも楽しんでやってるし、 辞めたいと思わないんだそうだ。東大出の友達の結婚式に出席したときのことを話してくれたが、そこで失望させられたのだとか。ある出席者に、 話の流れで、なぜ官僚になろうと思ったのですか?と聞いて、そりゃあ天下れるから、と笑って返されたらしい。

 僕のことも話しました。僕は法科大学院か、公務員かでゆれていますが。この夏には、弁護士事務所に勉強しに行ってまいります。 そこで決めようと思っていたのですが、お兄さんの話聞いてもう思いました。僕、法科大学院に進学します。

 知り合いの弁護士の話を聞かせてもらった。よく勉強した、って自分で言ってたらしい。一日に最低六時間はあたりまえなんだって。 時間が全てじゃないけど、重要な要素だ。僕は、できるか?

 悔いがないように、やるだけやるってのは大事だ。しんどくてもね。

2008/5/26

 僕はいろんな人の期待を背負って生きている人間だと思います。誰だってそうだ。人が人に期待する理由の多くは、 自分ができないことを代わりにやって欲しいという願いだと思います。自分がしたくないことを、代わりにやってもらいたいという願いといってもいいかな。

 社会のなかで生きていれば、人はいろんな集団に属し、そんななかで演じる役割というものがあり、その限りで人は人の期待を負う。 そしてまた、役割とか集団とかいったものから離れて、親のことは言うまでもなく、友達、恋人といった関係から、人は人の期待を負うようになります。

 そして、そんな期待の内実といえば存外、「自分にできないことを人にやってもらう」という言葉にしてみたらなんだかゲンキンなものだ。 それが良いとかいけないとかいう問題ではなくって、そういうもんだという話です。

 じゃあ、人の期待を多く背負っている人間はエラいのか?また、人に期待されない人間というのはクズなのか?そこんとこが気になってくる。 僕ももうすぐ社会人になるので、ここでちょっと公務員のことを考えてみようと思うのですが、公務員というのは、働くものは花形の仕事というか、 忙しい仕事をどんどんとまかせられ、かたや能力が低く使い勝手の悪いなまけものは閑職にまわされるものらしい。それでいてその両者の給料は 昇進でもない限り変わらないというのですが、給料というものを人の期待の裏返し、対価という風に捉えた場合、少なくとも公務員をやっている場合、 人の期待なんて仕事が増えるだけの面倒なものだ、という捉え方ができないこともありません。

 仕事や、もっと大きく言えば生きる、といった場合、確かに人の期待というのはそれをするための原動力になる。けれど、期待という内容について よく考えてみれば、単に世の中の面倒なこと、誰もやりたくないことを、おだてられたり、昇進といったエサを恵んでもらいながら、嬉々として遂行する 馬鹿、それが自分なのではないかという風に考える人がいても不思議ではないと思うのです。

 身も蓋もない考えですが、死んでしまえばホームレスも日銀総裁も同じゴミにすぎない。その間、どれだけの事物をいじくりまわしてきたか、 ひっくり返してきたかという違いでしかありません。非常に非道徳的な話で申し訳ありませんがね。どうせ同じなら、人の期待なんているもんかって いうこともできる。

 でも現実には、ある程度人は立派になりたいと考えています。人の期待を集められるような人間になりたいと。そのためには、動かなくちゃならない、 働かなくちゃならない、ガムシャラにならなきゃならない。これは浪費、何か巧妙な矛盾、強いられた苦役ではないのか。いやいや、そうした人類のたゆみない 努力の結果、生活もらくになったし、大昔ならば30過ぎたら死んでたところが、今では80超えも一般的になってきたではないかっていう考えも、わかります。 僕だってその恩恵に浴しているし、ちょっと反抗して「別に頼んでないし」と言ってみたところで、あと10年で死ぬのは嫌だ。

 それでも、なにかの期待を背負って生きてゆくことには、うれしさの反面、なにか漠然とした悲しみが付きまとうことをどうしても否定できないのです。 こういうのを業というのか、なんて思ってみたり。業を背負って、今日も部屋から外へ出かけてゆきます。

2008/5/19

 燃料をブチこみ続けていないと、そのうち心という名の内燃機関が老朽化して、再び元のように走ることができなくなるって哀しい! だから僕らは適当な動機をそのなかに放り込んで、黒い心を錆び付かせることのないように、命を燃やし続けているんだろう。

 動機を探し続けなくてはならないって哀しい!理由は転がっているものなのか、それとも心のなかに隠れているものなのか? ムチでケツを叩かれて、憂鬱な心をぶらさげて歩き続けるのは辛いことだけど、それよりももっと辛いことは、誰に言われるわけでもないのに、 自ら進んで果てることの無い道を歩かなくてはならないことだ。

 もっと哀しいことは、不合理をすべてわかった上で、それに抗うこともできずに、それでいて時に楽しく、時に悲しく、そして大部分は なんとなくの作業であることだ。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。 部屋がどんどん、ゴミで汚れてく。

2008/4/18

 部屋にいると、地面に溶けたい気持ちがする。体中が鉄のように重くなって、そのまま錆びてしまいたくなる。 この狭く物の散らかった部屋の主は、魂の抜けた抜け殻のようだ。そのまま淀んだこの静かで薄暗い世界で、ぼろぼろ になって朽ち果ててしまいたい。そのまま埃にまみれて何年たっても、ぼろぼろの自分だけはずっとそこにいたい気がする。

 この狭い部屋にいると、本当に人間性を失ってしまいそうで怖ろしい。何十時間でも、寝てしまいたい。でも現実の世界 は停滞することを許してくれない。仕方なく外に出るのだけど、最近は雨が多くてなんだか憂鬱な気分に余計追い討ちをかけるようだ。

 外にでてやることは、一体何なのだろうかとよく思う。一見何の役にも立ちそうにないことを、一生懸命やっている。役に立つ ようなことは、何一つやっていない。でも考えてみれば、役に立つことというのは結局のところお金に繋がることでしかない。そのメンタリティ自体 がどこか病んでいるのだろうか。体を鍛えたり、趣味に興じることを役に立つと思えないのは、貧しい考え方なのかもしれない。しかし、 そんなことばかりを頑張っていても、いつも虚しくなんだか寂しい。

 だけど、そんな寂しさ、虚しさを人に見せることだけはない。だから余計に寂しいのかもしれない。打ち明けることのできる人は いるのだろうか。そう思って、恋人や親しい友人、先輩といっしょに飲んではみたが、別れる頃にはいつも寂しい。そして、その場では どうしても他愛のないことしかいえないのが口惜しい。この寂しさ、虚しさを表現する言葉を持っていない自分に気づいた。自分でも、なぜ こんな気分なのか自己分析ができていないのだ。

 自己分析なんて、適当にやってごまかして生きればいいじゃないかとも思った。だけど、自己満足的に詭弁を弄して自分をだまして やってゆくには、無駄に精神的な経験をつみすぎた気がする。繋がれてゆく論理の先にゆきつく矛盾した結果よりも、物事を漠然と直感的に 捉えるやり方に慣れすぎて、それが仇になっている。だから、いろいろ書いてインチキ精神分析をやろうとするのだけど、直感のほうが「それは 違う」と開きかけた口をさえぎってしまうので、またもとの寂寞とした貧しい精神世界に堕ちてゆくことを繰り返している。

 この寂しさを紛らわしてくれるものを探して、今日もこの部屋を後にする。こんな気分のときは、晴れた空でも、しとしと降る雨でも、 陰鬱な世界にしか見えない。自分はただの物質だ。それがただ、動くか動かないかの違いというだけで、家を後にしたところにあるコンクリート ブロックと自分との間になんの違いがあろうか。ただ、動くか動かないかというのは、存外大きな違いなのかもしれない。石ころにはただ無限の 静寂があるだけだが、自分はベッドの上で石ころの真似をしようと思っても、常に体の中心は脈を打ち続けている。断食を決め込もうと思っても、 まる二日も経てば腹が減るし、小便だって行きたくなる。生物っていうのは絶えず動き続けていなくてはいけない、本当に不自由なものだと思う。

 人の手にかかれば、そのあたりの雑草は抜き放題だし、川に汚水を垂れ流し放題だし、自然の野郎め悔しかったら何か言ってみろって感じだ。 だけど、動けることってそんなに素晴らしいことなのだろうか。動きたくないときだって、嫌でも動かないといけないあたり、やっぱり不自由なものだ と思う。そこに素晴らしさを見出すためには、自分なりの生きる理由がいるような気がする。でも、生きることを考えていても、やはりどこか寂しく 不安なばかりだというのはどういうことだろう。

 いっそ死ぬことを考えているほうが、よっぽど寂しさを紛らわせてくれるような気がする。死んだらみんないっしょだ。それこそ魂の抜けた抜け殻 のようになって、消え去ることができる。そこではもう動かなくていい。このように考えると、ちょっと楽になる。ここにきてはじめて、やっと独りで立つことが できたという感じだ。そうしてまた明日から、なんとなく寂しく、なんとなく虚しくこの部屋を後にするのだろう。

2008/4/17

 人は歩き続ける生物だ。幼稚園、小学校のときは、みんないっしょに歩いていた。 中学校になると、何人かが道を違うようになった。幼い頃に歩んだ道の風景は、太陽とか原っぱとか樹木 ばかりの牧歌的な風景だった。いつ頃からだっただろうか、その風景がだんだんと変わってきてしまった。 夏の畳、秋の神道山、冬の手袋、春の霞、そうしたものの全てが自分であって、世界は自分だったあの日 が懐かしく、高校生になってからはよく授業中に窓の外を見たけど、そういえば英語の先生はそんな自分たちのことを 揶揄してこのように言った。

 「あぁ、夕日が綺麗だわって?自分に酔ってるんじゃありませーん。」

 青年期のセンチメンタリズムだけど、それを味わうことができるのは彼らの特権だから、当たり前のことを 当たり前にして何が悪いといってもいい気はする。だけど、そんな感情を自分だけのものだと思い込んでいる集団を目の前に すると、戯れの一つでも言ってみたい気分になるのかもしれない。もしかすると、今はもうそんな青い感情に心を悩ませる こともない自分の心が、はるかの昔の懐かしい記憶に共鳴し、さりとて手放しに自由な感情に身を任せることができない現実と 折り合いをつけた結果、青年たちと同調はせず、だからといって突き放すわけでもなく、ただ悪戯っぽく揶揄することで、 無限の理解を示していると言えないこともない。

 高校を卒業するころには、みんなそれぞれの道を歩くようになった。遥か横を見渡すと、今まで出あった無数の人々が いる。そのうち、遠くに見えなくなってしまうだろうという予感を孕みつつ。この頃には、自分とひとつだった自然が、徐々に 自分と分離してゆく感覚を味わうようになった。それは結構精神的痛みを伴った。自分は結局のところ、独りであるということに 気づいたからだ。

 いつも類推で生きている気がする。自分のはるか先に、既に人が歩いているから、たぶん自分も歩いてゆけるだろうと。

 

2008/4/5

 君無見其所欲

 君見其所欲

 臣自将雕琢

 君無見其意

 君見其意

 臣将自表異

 故曰去好去悪

 臣乃見素

 去旧去智

 臣乃自備

 信念と単なる個人的嗜好の差というのは紙一重な部分も多いけど、一目見ればすぐにそれがどちらの領域から発せられているかというのは、不思議と分かってしまうもんだ。そして、分かったところから幻滅させられる。しかし皮肉なことに、人の棲む世界は個人の嗜好の集合で成り立っていることが多い。法とか道徳とかいったものは、自然状態の危機から逃れるための装置にすぎず、普遍的なようでいて実にその起源は個人的なものであるのが本当のところだ。

 教室で一人が手を挙げると、僕も私もと皆が安心して手を挙げるように、初めの一撃というのは何となく偉大である。個人的なものが最大多数の所有する共通になる瞬間にはなんともいえないダイナミズムがある。しかし、それがいつしか法とかドグマになるとき、得体の知れない道徳臭さのようなものが漂い始める。これは個人的な由来を消してしまおうという無意識の集団的意識だって気がする。歴史なんてものは本当に個人的なものの集合だと思うけど、それを編纂する著者の嗜好の窺える日本史の教科書なんて、なんだか偏っているようで基本書とするには怖ろしい。そして、いわゆる客観的な視点で書かれた教科書というものは、道徳臭く、嘘臭く、何らの刺激もなく全く読む気がしない。

 俺はあまりに道徳臭いものは洗練されていない紛い物だと思ってる。だから、個人的嗜好を信念だって言い張りたいときには、なるべくぶっきら棒にするようにしている。そのほうが真実らしいからだ。単なる個人的嗜好を、道徳臭く信念だというやり方には疑問を持っている。欺瞞を欺瞞だよ、欺瞞だけど…という態度と、欺瞞を欺瞞じゃない、これは私の信念だという態度は、同じ欺瞞を扱っている点で似ているけど、こんなにかけ離れた態度って無いんじゃないか。昆虫は本物の花と人工の花の違いをたやすく見分けることができるけど、人はその点道徳とか制度、規範上の錯誤に陥ってしまうことが多いから、後から振り返ってみて情けなくなってしまうこともたまにある。でも、最後には必ず気付くもんだ。

2008/4/1

 不定形な未来に、漠然とした不安を抱えるようになった。それは或る晴れた朝、レース越しに白い光の差し込む 四角い部屋のベッドの上で、突然襲ってくる。昼下がりの大学の並木道を歩いているとき、眠い目を擦りながら歯を磨いているとき、 ふと用事を思い出して携帯に手を伸ばすとき―――それは一見平穏な日常のなかに、ふいに訪れる黒い霧のようなものだ。

 その瘴気の漂う霧から逃れるには、そんな霧はなかったのだと思い込ませるか、それとも果敢に立ち向かって、霧を払おう と難儀な努力を繰り返すかしかない。今は、そんな黒い霧が心を多い尽くすに任せている。諦めてはいない。しかし、払おうと手を動かす ことすら億劫なのだ。

 祖父と同じ道をたどるべきなのだろうか。その道を、自らの意思で歩もうとしているのか、自分でも猜疑してしまう。他に行く道が なかったから、そう思い込もうとしているだけなのではないか。昔から、これはと思う歩いてみたい道はあった。その道は今も、自分の目の前を 遥か彼方に伸ばしている。先は決して見えない、蜃気楼でかすんだ、サボテンくらいしか生えていない荒野のようだ。

 確実にいけると思える道がある。そこはアスファルトで舗装されていて、幾多の足跡がついていて。なんだか人の手垢にまみれたようで、 親父の整髪料がにおってきそうで。名刺の角で指を切りそうで、てかてかの革靴に泥がつくことにストレスがたまりそうで。択一式問題が課されそうで。

 荒野の先には、賢人が待っている。アスファルトの先には、バーコード頭が待っている。同じバーコードでも、えらい違いだ。なんというか、 死の方向へ向かっている気がする。いままで幾つもの、分かれ道のようなものを選んで生きてきた。今度は、最初で最後の分水嶺という気がする。 失敗したら死ぬのかな。そんな心持で。どうせ生きてるんだろっていうのはどこかで分かってるけど、それは死んでいるのと同じような生であって。 死んでみようか、迷ってる。死のうか。

2008/3/14

 朝日よりはやく起きてやろう。一日の始まりを、自分の手で迎えてやろう。昼に起きたら、なんだか 一日が既に始まっていたような気がして憂鬱だ。自分の力で一日を迎えてやれば、人生が少し能動的になる。

 祝電を書いた。世の中に結婚する人たちがまた増えた。アンナ・カレーニナを読んでいる。独りの時代は、 とても退屈な小説だったが、いくつかの経験を経て、前より遥かに面白く感じるから哀しい。アンナの気持ち に共感できるのは、もう少し先か。リョーヴィンは、おれの親友に似ている。警官を目指して、勉強している。 おれはオブロンスキーだ。いや、もうちょっと真面目に生きてやっとオブロンスキーか。

2008/3/13

 大切なことは、ぱっとやってきて、すぐにすぎていってしまう。だから目をいっぱいに開いて、 世界をみていなくてはならない。ぱっとやってきたものを、ぱっとつかんで、心に刻みつけなくちゃならない。

 山を走っていたあのときの心を忘れちゃいけない。学校から帰ったらすぐに、美しい夕日をもとめて山へと走った。 そのかけがえのない風景をひとつでも多く心に残そうと、山へと走った。頂上についたころには、もう真っ暗だった。 見下ろした市街が、赤青黄と光っていた。日没後の漆黒。見えない足元を恐る恐ると歩みを進めれば、近くで鴉が いっせいに飛び立った。

 あたたかい夕ご飯を食べたら、あたたかいお風呂に入って寝る。夜には起きて、勉強をした。運動と頭の体操。 結構理想的な生活だったが、やってる本人はそういう風には思っていなかった。

 独りでいる時間を大切にしよう。人といるのはいいことだ。いいことだけど、いつもいっしょにいたら、そのありがたみ がわからなくなるし、どうしてもカドがたってくるものだ。独りでいるとさびしいけれど、さびしいことは大切なことだ。 そのさびしさが、さまざまな詩的な感覚を生み出す原動力となるだろう。独りでないとみえないものもある。独りでないと、人は自分に素直になれない。

 いつも帰ったら山にいって、家にかえったらご飯を食べ、風呂に入り、仮眠をとって、勉強して、寝て、学校へいって、というように、 繰り返すことのなかには理想がある。そのなかで、日々世界の移ろいを感じよう。そういう意味では、山はいうことがない。孤独、詩的な心、 愛情、幸福、全部を教えてくれる。自然と触れ合おう。日々のなかで。そして、毎日を充実させるために、日々の型というものを作ってやるのだ。 いちど型を与えられれば、そのなかで無限の宇宙が広がってくるだろう。宇宙の住人となって、観想の日々をおくりたい。まずは、明日やることを 決めることからはじめようじゃないか。

2008/3/12 #2

 松山ケンイチ 314pt
 喜多善男 249pt
 MikuMikuDance 242pt
 トヨタ 238pt
 細木数子 230pt
 テレビ局 224pt
 花粉症 219pt
 セリーヌディオン 217pt
 パンダ 216pt
 マラソン 207pt
 お返し 205pt
 ワッハッハー 201pt
 確定申告 199pt
 蛇にピアス 191pt
 テイルズ 188pt
 ダウンロード 185pt
 柴咲コウ 179pt
 カミセン 178pt
 東大 175pt
 ARIA 172pt
 リンカーン 171pt
 ドコモ 169pt
 ハチクロ 167pt
 お弁当 163pt
 バンド 159pt
 ディズニーランド 157pt
 ダイエット 156pt

 Mixiの検索履歴だ。流動的な世間の注目というものを表す一つの指標である。

 ちょっと見てみよう。まず松山ケンイチとは誰だ。そんな男は知らないので、検索してみる。どうやら「日本の俳優、モデル」 らしい。デスノートとかに出演しているそうだ。特技は棒高跳び、車椅子バスケットボールらしい。なんで車椅子なのかは知らない。

 次、喜多善男。知らない。だから検索してみた。「自由死刑」という小説の主人公らしい。実はおれ、この小説を持っているのだが、 買っただけで読んだことはない。確か背表紙に「死ぬまでに何をしたいか?」とかなんとか書いてあったのをみて興味をもったのだが、 家に帰ってぱらぱらと飛ばし読みをしてみると、「俺が本当にこの女優とデキるのか?」みたいなことが書いてあって、げんなりしてしまった。 死ぬ前に好きな女性とセクロスしたいって、お約束すぎるだろうという冷めた感情はどうしようもなかったから、おれは「自由死刑」を本棚にしまった。

 次、mikumikudance。これはたぶん、初音ミクのことだと思う。ネットをするようになって以来、その内容は知らないが、存在は知っているという程度の ヲタク知識がやたらと増えて困る。フェイト(エロゲー?)は文学とか、ひぐらしとか、らき☆すたとかいうものがあるのだけは知っている。 その世界を少しのぞいてみると、なぜかすごく疲れる。おれは何をやっているんだ感がすごい。実際、サブカル界における席巻は目を見張るものがあるが、 そうしたものを牽引している原動力となっているヲタクというのは、そんなに多くはないのではないだろうか。おれのように、「みっくみくにしてやんよ」 という声を聴くと、無性に疲れる人も多いのではないだろうか。そうであってほしいが。

 次はトヨタ。なんでトヨタのランキングがこんなに高いんだろう。なんかあったんだろうか。ちょっと検索してみた。どうやら労組との 春闘交渉について、前年比1000円増(?)というケチな妥協をやったんだそうだ。ちょっと前までトヨタでバイトをしていたことがあったが、従業員、 特にサービスの人間のトヨタに対する冷めた目というのは、なかなかのものがあった。ケチでクソな会社なんだそうだ。なるほどケチでクソな会社らしい。 整備工はガチで過酷だが、本社のほうからは笑い声ばかりが聞こえていた。

 次、細木数子。占いの婆さんだ。たぶん誰も信じちゃいないと思うが、それを分かった上で番組側もあの婆さんを出しているのだろう。 「またあのインチキ婆がテレビに出てる」といいつつ、ついついテレビを見てしまうのが大衆だから。テレビをつけっぱなしにしておいて自然になっている 大衆に、取捨選択はできない。

 テレビ局。細木の次にテレビ局だ。大衆は今一度、テレビのあり方を見直すべきだろう。次はセリーヌディオン。何オクターブかの声域をもっている といわれるアメリカの歌手だったはずだ。昔、セリーヌでイーオンという台詞を本人が喋ることで有名になった、英会話のAEONのCMを思い出す。 確かに歌は上手いし、何オクターブも出てすごいと思う。しかし個人的には、そんなに何オクターブもいらないし、別に無理に歌唱力を誇示する ためかしらないが、彼女の歌に特徴的な「叫び」をいれなくてもいい。良いメロディに、それに負けない魅力的な声がついていればそれで十分な気がする。

 パンダ。中国を思い出した。なんでいまパンダなんだろう。北京か。

 次はマラソン。これは中村友梨香関連だろうな。先日の名古屋国際女子マラソンで優勝した。検索ランキングが高いのもうなずける。 そういえば高橋選手、駄目だったな。良いにせよ悪いにせよ注目される彼女。カリスマ性のある人物とは、彼女のような人物をいうのであろう。 野口みずきはたしかに早いが、高橋選手のように扱われることはこれから先もないだろう。カリスマ性とは、不思議なものである。

 今みつけたのだが、花粉症を飛ばしていた。この時期は花粉症なのだから関心は高まって当然である。つぎ、お返し。 これは本格的に意味がわからない。何を返すんだろう。お菓子か。冠婚葬祭か。検索で調べてみてもまともな結果が得られそうにないので、スルーすることにする。

 次、ワッハッハー。またわからんのが来た。ちょっと疲れてきた。調べたところ、「関ジャニ∞」が出てきた。なんだ、あのエンヤコラセーのお兄さんたち のことか。なんて曲名だ。しかしどういう世代に人気あるのだろうか。やはり中高生だろうな。興味なす。

 確定申告。税金関係か。よく知らないが、そういう時期なのだろう。次、蛇にピアス。金原ひとみだったっけ。芥川賞を、綿矢りさとダブル受賞 していた気がする。興味半分でよんでみると「ま○こ」とか普通に書いててびっくりした。最期のほうで、ち○こに線香かなんかをぶっ刺されて殺されている 男の描写があった気がするが、なぜかそこだけを強烈に覚えている。蹴りたい背中のほうは、全然覚えていない。インパクト的には、金原が勝っていたということか。 それと関係ないが、高校自分に金原の親父の瑞人さんの公演を聴いたことがある。彼は翻訳をしているらしい。英語を日本語に訳すのは難しいという話のくだりで、 日本語には一人称がたくさんあるが、あれは迷うねという話は今でも覚えている。おれもここでは自分のことを「おれ」としているが、これを「おいら」にする だけでも随分と印象が変わってしまう。日本語の一人称はなかなかおもしろい。あたいとか、それがしとかは廃れちゃったけどね。

 テイルズ。これはたぶん、テイルズオブエターニアとか、テイルズオブディスティニーとかいうゲームのシリーズのことだろう。これも名前だけ知っている というものの一例である。最新のシリーズの名前はどんなだろう。ちょっと調べてみた。テイルズオブ・イノセンスだそうだ。無垢。部外者のおれは、「ほう、そうか」としか 言いようがない。

 ダウンロード。ダウソのことだ。何をダウンロードするんだろう。考えても分かるわけが無いからスルー。次、柴咲コウ。一度みたら忘れられないタイプの顔立ち の女優さんである。舞妓の映画かなんかに出演していた気がする。ああいう人は、美人なのかどうかよくわからない。いや美人なのだけど、きっと自分ちにいっしょ にいたら落ち着かない顔だって気がする。いっしょにいて落ち着くのと美人というのは関係ないが、美人だからいっしょにいたいと思うかどうかは別問題のようだ。 すごい美人は、逆におそれて誰も手を出さないとハウツー本に書いてあるが、だからといって彼女がめちゃ美人だからなんとなく落ち着かないというわけでもなく、 どちらかといえば主張がつよく印象の強い顔立ちがゆえにこちらをそわそわさせる。女優としては、すばらしい容貌をもっているといえよう。 そんな顔に生まれてみたかったという女性は、世の中にたくさんいるだろうが、逆に男性にとって「嫁に欲しいか」といわれれば、やっぱり平凡な顔立ちを好 む男性がほとんどだと思う。だからこそ彼女は、女性に人気があるのだろう。篠原涼子や江角マキコが女性に人気があって、男性にとってはそうでもないことを 考えると、女性が理想とする女性の条件というものが浮き出してきてちょっとおもしろい。

 カミセン。知らん。検索したら、V6と出た。たぶんV6が出演するドラマのことだろう。VSといえば、学校へ行こうのイメージが強すぎる。そのくらいの 印象しかないし、おそらくそれ以上に殻を破ってくれることはないだろう。個人的に森田はいい人だと思うが。

 東大。昨日、芸人が東大を目指すという番組をやっていた影響からなのだろうか。最初は馬鹿にした感じで見ていたけど、受験というドラマのなかに 身を投げ出してゆく芸人の姿は、結構請求力があった。必死に何かを頑張っている人間というのは美しいということが分かった。最初の予想通り、結局誰も 合格することはできなかったが、彼らの熱意は全国に飛び火したと思う。小さな場末の寄席でネタをやるよりも、全国放送のテレビで自分が芸人であるという ことを忘れ、一心不乱に勉強する姿のほうが、人に訴える力がはるかに強かった。そこから彼らも何か大切なことを学んだはずである。

 ARIA。もちろん知らないが、調べたところなんかのアニメのようだ。たぶん一生見ることはないと思う。なぜこの種のアニメは見る気がなくなるんだろう。 条件反射なのだろうか。逆に、この種のアニメは見ずにはいられないという人もいるかもしれない。それも条件反射なのだろうか。だとすれば、だれが我々をパブロフ の犬みたいにしつけたのだろう。環境なのだろうか。だとすれば、後者の条件付けを行った環境というのはどのようなものなのだろう。思うに、環境が与える影響というよりは、 刺激によって萌芽した素因の違いによるものであろう。ロリコン好きは条件付けではなく、素因だと思う。

 リンカーン。ダウンタウンの番組だ。ガキの使いはよく見たが、最近ダウンタウンから離れてしまった。お笑いそれ自体から離れてしまった感がある。 なぜだろう。昔のはおもしろくて、今のはおもしろくないのだろうか。だからといって、昔のを見てもなんだか色あせているようで見る気が失せてしまう。 ヘイポーが昔「お笑いは水物だ」と言っていたが、かつておいしかった鯛も、腐ってしまったら食う気がしない。腐っても鯛だが、腐ったら食えないではないか。 チャップリンの喜劇というのは、魚拓のようなものだ。魚拓をみると「おお、すごい」となるかもしれないが、決して食指を動かされることはない。 「今」その瞬間に「おもしろい」と思えるものが見たいのだけど、いつまでたっても望みのネタは廻ってこない寂れた回転すし屋が今のお笑い業界だって気がする。 仕方が無いから「大将、エンガワくれ!」というのだけど、「あいにく切らしてまして」という答えしか返ってこない。タマゴとキュウリ巻きばっかり廻ってくる時化た回転寿司だ。

 ドコモ。おれのケータイはドコモだ。携帯についての認識は、AUは昨日が充実してて、ドコモは堅実、ソフトバンクはなんとなく胡散臭いという感じだ。 これは感じなので、まったく根拠はないが。ソフトバンクといえば、どうしても孫正義の顔がセットで思い浮かぶから嫌だ。ところでどうでもいいのだが、孫正義は在日なのだろうか。

 ハチクロ。知らないのがきた。調べてみると、そういうドラマなのだそうだ。結構ドラマのランキングは高いようである。元ネタは少女マンガらしい。 少女マンガといえば、もうそれだけで違う世界のものとして遮断したくなる感じがするが、実は結構おもしろかったりする。小さい頃、ときめきトゥナイトという 漫画を読んだことがあるが、おもしろかった。ストーリーがよければ、あのファンシーな絵はいつの間にかあまり気にならなくなる。それどころか、それでないと駄目 ということにもなりかねない。これはひぐらしの絵といっしょである。ひぐらし読んだことないが。

 お弁当。わからん。意味はわかるが、なぜ検索でお弁当が上がるのかがわからない。次、バンド。これもわからない。そんなに有名なバンドがあるのだろうか。 バンドといえば、一時期中高生が狂ったように腕に白い輪をはめていたのだが、あれはなんだったのだろう。たしか300円くらいした気がする。どうみてもイカリング にしか見えなかった。イカ臭い小僧たちがイカリングを腕につけていたあの頃。まだつけている人はいるのだろうか。全然かっこよくなかった。

 次、ディズニーランド。非常に優れた遊園地だ。遊園地というものは興味がなかったし、修学旅行でいっても全然楽しくなかった。むしろ不思議なことに、 中学高校と、おれといっしょに遊園地に遊びにいった人間のうち、必ずだれかとだれかが喧嘩するというジンクスのようなものがある。そういうこともあって、 遊園地の思い出にはろくなものがなかった。しかし大学生になってガールフレンドと遊園地にいって以来、遊園地にたいする印象は180度改められた。 普通に楽しかったのである。そのかわり、お金は2倍かかることに注意しなくてはならないが。

 最後、ダイエット。もういいかげん書くのがしんどくなっていたところだ。ダイエットといえば、いちばんいいのはやはり運動だろう。 「ゆらゆら」だったか。筋肉を収縮させてとか、脂肪を自動でゆらしてとかいう類の器具はインチキくさい。その器具なしにはやせられないからだ。 それよりもはやり、やせるからだを作ったほうがいい。飯を制限して運動してストレスがなるべくたまらないように生活していたら誰だってやせられる。 ダイエットに失敗する人は心に問題があることが多いので、まずは心をキレイにするために美術館でもいったらいいんじゃないだろうか。

 以上、Mixiの検索履歴を全てみていった。おそらくこの履歴も、一日すればガラッと変わってしまうのだろう。世の中の流れははやい。 mikumikudanceなんて、たぶんものの数週間で誰も見向きもしなくなるだろう。それでも、その作者にとっては間違いなく今この瞬間、俺は注目を 浴びているぞという確かな快感があるわけで。それはハチクロでもそうだし、「自由死刑」でもたぶんそうだ。真に世の中は、ストロボライトのようだ。 こう日本列島を上空何万メートルも上から見下ろして、各地でパシッ、パシッと刹那の光が明滅する。そんな光さえ作り出すことのできない人たちは 、光ったほうへいっせいに顔を向け、日々いそがしそうに目を眩めかせている。消えたらその光はすぐに忘れられ、また次の光のほうへと顔を向ける。こんな世の中だからこそ、 月の光のように、いつの世も変わらぬ光に目を向けてみたいものである。ストロボライトの多くなったこの現代においては、かえって蛍の光だとか、 そういった光に目を向ける人は少ないかもしれない。人にはどこか、人とは違ったことをしたいという思いと、人と同じことをして安心していたい という思いが同居しているようなところがあるが、昔ながらの光のなかに、かえって誰も見落としているような美しい光を見出すことがあるかもしれない。

2008/3/12

 不安を抱えて生きるのが辛いからといって、皆目不安のない生き方をするのも苦痛だ。日々の「ハリ」とは、 適度に管理されたストレスに晒されながら生きることである。その匙加減によっては、自分を殺してしまうこともあろう。 過剰なストレスは原因不明の心臓ないしは脳の疾患を引き起こし、まったくストレスのない生活というのは、途方もない 倦怠をもたらす。どちらによっても、人は死ぬことを選ぶ可能性があるのだ。

 ストレスの使い方を心得ている人間が、おそらくよき人生をおくる。ストレスの使い方を誤っている人間は、理不尽な生き方を強いられよう。 ふいに行きずりの者に尻をつねられたら、誰だって理不尽なだけだ。それが美人のお姉さんだったらどうだろう。そこに何らかの 意味を見出して、興味(興奮?)を覚えないだろうか。SMプレイについて考えてみよう。そこではストレスが管理されている。黄金を食わされる代わり に、快楽を与えてくれる。人間は、ストレスによって快感を得るようだ。会社や軍隊という組織というのも、むしろストレスを楽しむ 装置のように思える。利潤の追求、国益の護持という題目をかかげ、実は命令されたり、することに悦楽を見出しているように思える。

 「あの部長のいうことを我慢していれば、今におれが…」というそのストレスの使い方は、なかなかよく考えられている。こういった 関係は、世の中のあちこちで見られるようだ。支配を受ける者は、支配者に与えられるストレスによって、生き方を変えられてしまうこともある。 しかしこの点、SMプレイは奥が深い。サド狐はマゾ豚を支配しているようだが、その力加減を過てば快感は苦痛へと変わってしまうし、 その程度があまりにも稚拙であれば興を冷ましてしまう。そういった意味で、本当に躍起になっているのはサド狐のほうで、マゾ豚はただ なされるがままに体をゆだねておればいい。本当の支配者は、尻に蝋燭をたらされているマゾ豚という場合もあるのが、世の中の妖しい倒錯であるといえる。 まるで北野武「座頭市」のラストの親分のようである。

 自己管理とは、己のサド狐とマゾ豚を飼ってやることだ。「あなたはS?M?」というのは下ネタへの切り口としては使い勝手がいいが、 本来人はそのどちらの性質をも持っている。手枷足枷をかけられて動けなくなるサド狐がいてもいいし、度重なるご奉仕に嫌気のさしたマゾ豚が 、ご主人様を縛ってみてもいい。ほとんどの人間がこうした転倒をあり得るものだとして眺めることができ、こうした転倒への嗜好をもつ者がほとんどだ。 水戸黄門を考えてみよう。「おそのさん、ご主人を信じて待つのです。」なんてことを言ってる暇があったら、最初から「 儂が水戸光圀じゃ。」と 自ら出て行けば、そもそも代官は何もいえない。それなのに我慢できるとこまで我慢(その間に番頭の孫六さんが死ぬ)して、最期の最期に思いのたけをぶちまけるっていうのは、どうも人のウケがいいらしい。 ヤクザ映画もほとんどそのような展開をたどる。最期の最期にドスや拳銃をもって、敵のところに殴りこみにいって、華々しく死ぬというマゾ豚メンタリティだ。

 己のサドは、己に課題を与える。己のマゾはそれを受けて悶える。サドはマゾを悶えさせなければならない。悦びに震えさせてやらなくてはならないのだ。 これを下手にすると、課題はただの苦痛になるか、すぐに倦んでしまう。最近おれは自分に課題を与えすぎたせいで、それがただの苦痛になってダウンしてしまった。 その反動でまったくサドのほうが課題をだしてないのだが、マゾのほうが退屈してしまって死にたいとぼやいている。そろそろ何かストレスを与えてやらなければ、生活にハリが なくなってしまう。

2008/3/11

 数年前、「自分はこんな風になってやる」と心に決めたのに、実際にやっていることといえばどうだろう。 その翌日には、前日の興奮などすぐ忘れ、いつものように朝飯を食い、昼飯を食い、晩飯を食い、糞をして風呂 に入って寝る。誇り高い生き方、高貴な生き方という理想はあっても、実際にやっていることといえばどうだろう。 あれから何か変わることができたか。確かに経験は積んだ。たくさんの人たちと出合った。世渡りだって、ずっと うまくなったろう。

 それがなんだというのだろうか。それを欲したわけでもなし。気づけばそうなっていたというだけの話だ。 農民の手に肉刺ができるのは結果にすぎない。田畑を耕さんとして農具を振るう農民。その手にできた立派な肉刺は、 農民の勤労を表している。それは確かに高貴なものだが、立派な肉刺のために地を穿つ作業を幾年も繰り返す農民はいない。 生命をその手であがなうために、農民は大地を耕す。

 農民の肉刺も、この世の娯楽も、つかのま訪れる日々の余暇も、はるか遠くの世界の戦争も、こうしてみれば全ては生命を 繋いでゆく課程にあらわれた気まぐれのように思える。おれの手にも肉刺がある。別にのぞんではいなかったが、人には ちょっと誇らしげに見せたこともあった。世の中は気まぐれであって、その気まぐれによって生かされていると感じた。

 それでもこうも思い通りにゆかない世の中に生きているおれの心の広さったらどうだ。同じくらいの心の広さをもった 人間が世の中にはたくさんいるらしいが、そこには共感はなく、ただただ同属嫌悪だけがある。特別になれたらいいなと思う。 でも特別になんかなれない。数年前、「自分はこんな風になってやる」と心に決めたのに、実際にやっていることといえばどうだろう。 その翌日には、前日の興奮などすぐ忘れ、いつものように朝飯を食い、昼飯を食い、晩飯を食い、糞をして風呂に入って寝る。 誇り高い生き方、高貴な生き方という理想はあっても、実際にやっていることといえばどうだろう。そう、特別ななんてものは幻想だった。

 おれは、立派な肉刺のために地を穿つ作業を幾年も繰り返すことのできる農民になれるだろうか。楽しいこと、しんどいこと、 わくわくすること、怖いこと、それらは全部気まぐれにすぎない。気まぐれに身をまかせることができるだろうか。生命をあがなう生活 の直中で。実際は気まぐれが支配している世の中で。生命をつなぐために頑張ってみようが、気まぐれに身をまかせようが、それでも結局人 は死ぬ。最期の瞬間、来た道を振り返ってみても、存外そこでは温かい目をもって来し方行く末を見守っていることができるような気もする。 そうなると、その選択のなかで悶えることはなんだかばかばかしい。肩の力をぬき、微笑を含んだ余裕をもって死出の道をゆこうではないか。

extra stage