2006年8月23日〜9月22日

2006/8/23 「良さ」

 小学生の良さ。 それは世の中に対する知識の無さ故に、世の中に対して純粋でありうること。その純粋な眼は 時の流れに対しても無垢であるから、時間に真剣に向かい合っているだけ、小学生の時間の流れは 緩慢です。中学生の良さ。それは抽象的な物の見方ができること。その思考力は、 自己意識を無限に敷衍します。よって、中学生は「何にでもなれる」という夢を持つことができる。 高校生の良さ。それは選択できること。皆といっしょでいたいという思いと、皆といっしょは嫌だという 相反する思い。その煩悶のなかで、自分の居場所を探して絶えず選択し続ける。高校時代はセクトの時代です。 選択をすることのできる決断力、これこそが高校生の素晴らしさだと思います。

 現段階での俺の認識はこのようなものです。小学生の良さ、中学生の良さ、高校生の良さ。 実は高校生の良さに関しては、いまだに自分のなかでも整理がついてないので後から変わるかもしれません。 高校時代は、自身に変化がありすぎましたから。

 そろそろ、大学生の良さについて考えないといけない時期にきているなと思っています。大学生の良さって なんだろう?お酒が飲めるようになること?バイトなんかを通じて、社会のことがよくわかるようになること? 違うだろ。そんなことじゃないだろ。じゃあ、学部の勉強を通じてより高度な知識を身につけることができるように なるってことか?違うだろ。いろいろありきたりなことを考えるんだけど、全部否定せざるをえないような不細工で 薄っぺらいことしか思いつかない。それにはもっともな理由があります。

 21日の日記で急に俺が壊れたのでビックリしたマニア(このサイトに訪れる人は全員ある種のマニアだと最近 思うようになった)の人がいるかもしれませんが、実はあの日記のみならず、今まで俺が壊れている日記には、俺だけ にわかるある仕掛けが埋め込まれています。見てもらえたらすぐに分かるんですが、随所に「絵の具」だとか「拡声器」 だとか「夕焼け」だとか「血」だとか、なんの脈絡もない単語が散りばめられていますが、これは俺だけに理解できる 思い出なのです。皆さんにも、ある風景だとか物だとか音楽だとか匂いだとかを知覚すると、条件反射的に喚起される 思い出というものがあるかと思います。例えば日記にある「橙」「レンガ」「窓枠」ですが、この一連の組み合わせの 中には、文章にすれば何十行にもなりそうな記憶を封じ込めてあります。これは俺が日記を書くときよく用いる手法です。 ただ、なんでこんな表現方法なのか。

 過去のことを書くのはかなり恥ずかしいものです。俺もこのサイトを立ち上げる前に、結構長い間やってたもうひとつ のサイトがあったのですが、受験期にさらにもうひとつ母校関連のサイトをやっていたので、やむを得ず閉鎖していました。 そして最近、昔のサイトにあった過去ログを見てみたのだけれど、これがまた恥ずかしい。いや、書いてある内容は正直、 結構おもしろい。だけど、駄目だ。結構真剣に物を書いてるからだ。そして人の考えというのは成長とともに変化するから。 今の自分と違う考えをもった過去の自分が、真剣に意見を述べている。誰だって、自分は一貫した人間だって思いたい部分 がある。しかしどんどんと読み進めているうちに、過去に自分が真剣に考えたことが、今の自分に少しずつ影響を与えている のを感じました。ここに、もしかしたら大学生の良さについてのヒントが隠されているかもしれない。俺はそう考えました。

 21日の日記であのような表現手法をとったのは、一種の逃げです。最近過去に志向することが多いんだけど、過去を 記憶のなかで追体験するのは辛い。でも文字を通じて(そのほうが高度な思考が可能)過去を振り返ってみることの大切さは、 過去ログの日記からも認識してた。やっぱり中途半端はいけない。ヒントは得られませんでした。

 なぜ大学生の良さがわからないのか。それは過去をみなくなったからです。100円もっている経済状態に評価を下そうと思えば、 先月まで10円しか所持していなかったとか、1000円持っていたという比較の対象がなくてはならない。できなかったこと、できるように なったこと。できたことができなくなったこと、できてほしいこと。考えてなかった。それも考えられなくなったのか、それとも考えない ように努めて本当に考えなくなったのか、考えないことが良いことなのか悪いことなのか。前提を全部ひっくるめて、考えなくなった。 これでは、自分が大学生になったことの自覚が甘いのも当然でした。

 ちょいと反省。

2006/8/26 「大事なこと」

Laugh like an allow=bay=esist=rules=edo.

Behave constantly until ending.

Keep thinking.

Obtain credit from...

W-ata-sh-igad-aij-i-datoo-mou-k-otode-s.

2006/9/5 「大切なこと」

大切なこと。

 声を出すこと。声が生み出す気合は相手を圧倒することの他に、自分に気合を入れる意味がある。 限界を感じたとき、その壁を破ってくれるのは自分自身の声に他ならない。声の力を甘くみること 勿れ。声は力の表現。決して出し惜しみすること勿れ。

大切なこと。

 思いやり。身内ばかりを思いやること勿れ。まずは身内以外の他人に気を配ること。身内ばかりに気を 配って他者を蔑ろにすることは非常に醜い。また、思いやりとは自分のことを理解することが前提となって 初めてできること。自分という人間にもっとも相応しい動きをすること。勘違いすること勿れ。 出来ること、出来ないことがあること。

大切なこと。

 型を覚えること。型とは自分の可能性を制限すると同時に、自分の可能性を広げてくれる大きな器のこと。 型とは己が選択。いわば行動規範。自分を方向付ける指針。自分の型を持つこと。自分の型を決めたら、その 型を極めるために全力を尽くすこと。

大切なこと。

 辛いという感情を制御すること。辛さを制御するには、肩の力を抜くこと。遠くを見ること。何も考えないこと。 反復すること。人の話を聞くこと。自分だけに意識を集中させず、他人の生き方に目を向けること。静かに泣くこと。 悔しさに素直に目を向けること。

大切なこと。

 他人の切なる声に耳を傾けること。他人が自分にして欲しいことを機敏に察知すること。そのためには、悲しさ、 喜び、いろいろな感情を知る必要がある。経験すること。いろんな場面に飛び込むこと。そこで泣いたり、笑ったり、 心に波を立てること。そうすることで、人のことが理解できるようになる。経験していないことは、理解できない故。

2006/9/8 「明日」

 日付だけでは味気がないので、各日記に題名を付けてみました。

 最近は忙しいことが多いです。大学の部活の関係で愛媛に合宿に行ったのはいいけど、お陰で 休んでいた予備校の講義がたまってしまって、ちょっとした「こどもチャレンジ」状態になってる。 たまった添削教材をどうしようかと、頭かかえて転げまわった末、涅槃のポーズをとっていた小学生の記憶が蘇ってくるってもんだ。ファック。

 合宿から帰ってからの私の基本的な行動パターンは、昼は考古学の発掘をしている大学の先輩の代わりに バイトに励んで、夜は予備校、深夜は部活という非常にハードロックキャブなスケジュールになってます。合宿で培った 体力を、なんだか無駄に消費してるって感じだ。ただ順調にいけば、今月は給料が余裕で10万を越えそうです。

 しかしそんなキツキツの生活のなかで発見するものもあります。それは「私は時間に縛られる生活があってる」って こと。北朝鮮に楽園を求めた日本人妻、韓国に亡命したい北朝鮮人。自らが辛い立場に立っていると、ただただ人は無性に 解放を望んで「脱出」しようとしますが、時間に追われるせわしい日々も、なんでもできる時間が放恣に流れる日々も、 どちらが酷でどちらが快だとは一概に言えたものではありません。

 私は後者が嫌いです。だって、パソコンをはじめとして下らないことに時間を浪費しちゃうんだもの。然るに 今日の私は予備校を休んで部活を休んでパソコンの前に座っている。なぜか。昨日の夜、高校時代の友達とついつい 長電話してしまったからです。しわ寄せが凄いんです。私はネガティブになりました。後者を選択したがゆえに。

 確かに、これからすること全てが決定された一日は苦痛かもしれません。けれど、それが一度達成された後の あの爽快感といったらなんだ。襟足に風が吹く感じ。やったぞじいちゃん!って叫びたくなる。友達といっしょに。土手で。 三島由紀夫は、前日の夜にあらかじめ翌日にやることをメモ帳に書いておいたそうな。「私はその通りに行動する」って、 私も言ってみたいぜ!まったく。高校生の素晴らしさは、 気の向くままに行動できる素晴らしさ。大学生の素晴らしさは、自分を律することのできる素晴らしさ。

 ということで、明日の予定。朝起きる。電気屋に電子辞書買いにいく。ついでにビデオカメラみる。予備校行く。 部活いく。友達に愛媛のお土産渡す。こんなんでどうだ。

2006/9/10 「その実」

 秋風の清々しい朝。バイトに行くために自転車に乗って(鼻歌を歌いながら)土手沿いを 突っ走っていたら、母校の高校生と次々とすれ違う。懐かしい制服。懐かしいカバン。ここでこうして 同じように制服を来て、誰もいない橋をひとりで渡っていたかつての遅刻常習犯である、この俺。思えば6ヶ月の 月日が流れたわけである。あれから何が変 わったかって、住む世界の空気が変わったなって思う。自分が変わったんじゃない、自分を取り巻く空気 が変わった。吸っている空気、肌に感じる空気、もっと言えば木も変わったし、空も変わった。周囲の あらゆるものが、昔と同じようで同じでない。

 自分の心と世界の風景は繋がっている。嬉しいとき、悲しいとき、緑が美しく見えたり、空がくすんで みえたり。楽しいときは、世界が自分を味方してくれる。辛いとき、世界に押しつぶされそうになる。変わったのは 自分という人間の捉え方、定義づけだと思う。青年期の終わるときはモラトリアムの終わるとき、アイデンティティを 得たときだと現社で習ったことがあるけど、確かに何かを通り抜けた気がする。それは2006年3月に卒業式を経てこのかた、 ○月○日のある午後、或は便所でクソをしていたときかもしれない。それは俺自身にもわからない、ただ過ぎ去ったという実感だけがある。

 遠いと感じる心、遠いと感じる時間、それはとても感慨深く、哀しい。今通るのはあの頃と同じ道。でも、 もう違った道。あの頃と同じ道じゃない。新しい道。良いとか悪いとかそんなん関係なしに、ただ違うということ。 戻れないということ。こういうとき、新しい道に期待をよせて、ただひたすら先に眼をやる人、また、懐かしい道に思いを 馳せ、二度と届かない世界を回顧し心を震わせる人がいる。どっちも大切なことだと思う。過去のことを想わない人 には深さとか、重さ、といった印象が希薄だし、過去のことばかりに拘泥する人は新鮮さや躍動がなく物足りない感じ がする。現在に生きながら過去と未来、その両方の時間軸に大きくまたがって生きる人は、やっぱり魅力的だと思う。

 バイトをしていて想う。俺は何をしているのか。毎朝のあの邂逅で、少し過去志向になってる今日この頃。今頃、 受験の勉強をしているのかな、あの子たちは。じゃあ俺は?確かに俺は学んでいる。勉強では得ることのできないことを。 最近大人にみられるようになりました。年上の人達と付き合うのが好きになりました。苦手なものが、こうしてまた減って ゆきました。成長するというのは、できることが増えることなのか。苦手なものが減るということなのか。それとも、 鈍感になるということ?今、俺は、濡れたタオルを持って、車を洗っている。同時に、みんな、何をしているのか。気に なって仕方がないこともある。これでいいのかと無性に自問したくなる。人はそんな俺のことを立派だといったり、羨まし がったり、労ってくれたり、よくやるよというシニカルな見方をしたりするけど、青年期の他人志向の日々を抜けた今、 そんな雑音に興味はなくて、ただただ興味のベクトルは自分の心に向かって突き刺さる。俺は、何をやってるんだ。

 挨拶をしてくれる、素敵な笑顔で。気を引いてくれる、何気ない仕草で。こんにちは、ありがとうございます、おつ かれさまです。ふいに、こちらに興味をしめさない人がいる。興味がひかれる。1分くらい。すぐに興味を失う。頑なな矜持、 そして腹立たしさ、そして諦め。彼女は彼女で、自分は自分なのさ。続く日常、 繰り返される日々。いつからか?高校の頃から。出会うということは、本当に偶然。袖刷りあうも他生の縁、一期一会の気持ち で接しなさいなんて、小うるさい大人に教えられたけど、そんなことは無理。出会いというのは本当に偶然で、本当に希少。 多くの人とすれ違ってきた、アナタのSTMが彼の顔を記憶する、もって1分。それが現状です。でも、その1分が一生になることがある。 分からない、出会いは突然やってくるから。終わってからホラを吹けばいい、これが私の一期一会って。結局、出会いは 放恣に生まれ、劇的に始まる。そこからがアナタの一期一会ってやつだ。俺の人生は、こじ付けと脚色でできてますから。

 終えるとき。開放感に身体がしびれる宵の明星。始まる時は、これから起こること、それからの数々の障害を思い、気が滅入ってしまう。 そんな憂鬱を吹き飛ばすように、今日も一日…!と気合を入れる。要するに忘れるということだ。忘れ、無我になり、ひたすら目の前に あるものに専念する。いつしか見えてくる。終わりが見えてくると、不思議な勇気がわいてくる。動機が身体を動かしてくれる。 新しいエネルギーが注入されたような気がする。どこまでも行けそうな気がする。生きてゆくうえで大切なこと。これも二択に なっちゃあダメ。ひとつは目の前にあるものに盲目的に専念すること。ドミノを並べるとき、その手に持っている一個のドミノ に集中し、いままで並べたドミノのことは考えない。もうひとつは、先をみること。一時間先、一日先、一週間先、一ヶ月先、 一年先、10年先、100年先、場合によっては1億年後のことに思いを馳せてもいい。先をみること、そして目の前のことに専念すること。 人が生きてゆくうえで大切なことは、この使い分けだと思う。つまり、自分の心を気遣ってやる優しさ、ということ。

 眠ることは怖いですか?眠れば明日がやってくる、眠れば今日が終わってしまう。今日が終わるのと明日が始まるのは同時、 だが、どちらに志向するかという我々の心の分銅の重さで、今日の天秤と明日の天秤は大きく均衡を崩してしまう。明日に恐怖を覚えますか? 今日が終わって欲しくないですか?それとも、はやく明日になって欲しいですか?俺はいつまでも今日でいて欲しい人間です。 延ばし、また延ばし、結局のところ、明日の朝の目覚めは酷いものです。そして昨日のことを思う。「なぜもっとはやく明日を望まなかった んだ」。そう思ったとき、そう願った時、今日は明日へと移り変わる。月が太陽にバトンタッチをする。変化に乗り遅れることなかれ。明日を恐れることなかれ。今日にしがみつく ことなかれ。時の天秤の均衡を保つこと。やっぱりこれも、生きてゆくうえで大切なことだと思う。そして、時には均衡を破ることもまた大切だと思う。

2006/9/20 「つらつら」

 このサイトを運営していて思ったことを書きます。

 当ビチャビチャサイトの左上に解析がついているのは皆さんご存知のことかと思いますが、 最近とんでもない検索ワードでココへ飛んで来る方が数名いらっしゃるらしく、解析を見る度に 俺は微笑ましくなってまいります。ちなみにその検索ワード、いったい何だと思いますか? ビチャビチャですか?惜しいですね。確かにビチャビチャで正解なのですが、それプラスある検索ワードが含まれるのです。

 正解は「小学生 ビチャビチャ」と「中学生 ビチャビチャ」です。こんな「あ、検索者は男に違いない」ってすぐ わかるような検索ワードかつ、直球ストレートな表現でこの俺の度肝を抜いてくれるヤツがこのサイトを(勘違いして)訪れて、 俺の文章を読んでくれている。こんな興奮、未だかつて味わったことがありません。

 もともとなんでこのサイトがビチャビチャサイトなのかというと、前から「○○サイト」っていうネーミング に憧れがあった(「まさるの超サイト」的な)のと、「ビチャビチャ」という、受け入れ方によっちゃどうにでも とれる多様性のあるワードにユートピアの予感を感じたからです。つまり小学生とか中学生のビチャビチャが見たくて 俺のサイトを訪れた方々は、ビチャビチャという言葉を偶然そういう風に捉えた人だったというだけのことなんです。

 性欲を持て余す人っていうのは俺は大いに肯定したいです。というのは、そういう人ほど「何かを生み出す力」が あるはずで、その人はたまたま小学生や中学生に力を注いでいるだけであって、そのはけ口を別に得ることができれば、 きっと素晴らしい才能を発揮してくれるんじゃないかな?とは正直あまり思わないのですが、そんな小学生や中学生のビチャビチャ のことばかり考えてる人たちが立ち寄って、しばし小学生や中学生のことを忘れて別のことを考えるいい機会を提供できれば 彼らの内なる何かが少しずつ変わってゆくんじゃないかという大いなる期待がありますから。

 たぶん、小学生や中学生のビチャビチャどうのこうのを希望している人は、小学生や中学生じゃないと思うんですよ。 性欲はいいんです。ただ、方向性なのです。俺もかなり倒錯したものに嗜好のある人間ですから、そういうのにはすごく共感 できるんですけど、やっぱり「今の俺は間違っているな」っていう自律機能がある程度働くんですよね。ということで、これから 当ビチャビチャサイトは「人間としての自律機能を取り戻すサイト」を目指して頑張ってゆきたいということに決定いたしました。 だから「小学生 ビチャビチャ」や「中学生 ビチャビチャ」でココに引っかかった人は、急いて違うサイトに飛んでゆかないように。

 それと解析をみていてもうひとつ気付いたのが、サイトの面白味のなさからいつも足跡は10人以下というさなかにあって、 割と足跡を残してくれる固定客の存在。というか、その人たちに何度も足を運んでいただける結果、なんとか訪問客ゼロという状況 がなんとか死守されている状況に加えて、検索に引っかかってくる人達の検索ワードがことごとく「ビチャビチャ」ばっかなので、 そんな興奮状態にある人にとっちゃあこんなサイトはクズ以外の何物でもないということで、完全な一見さんばかりです。

 サイトに来ていただけるお客さんを増やす重要なポイントとして、アクセスランキングのようなサイトに登録したり、有名な サイトに相互リンクや文中リンクをしてもらうという「技」がありますが、今のビチャビチャサイトは特にそういったサイトに登録 しているということはありません。さらに、タイムリーな話題をまったく用いないということから、俺の文章を見てもらっても分かる 通り、極めて検索しづらいありきたりな語ばかりで構成されています。ここでちょっと「少年犯罪発生件数」とか「尊師マーチ」とか を挟むことによって一気にビチャビチャサイトが検索に引っかかる可能性が高まるわけですが、残念ながら時事問題はいままで殆ど 扱ってきませんでしたから、やはり検索で引っかかってくるのは性に餓えたビチャビチャ野郎ばかりでした。

 しかしながら、俺にも悪いな、と思う点があって、それは更新頻度が非常に低いことです。実際に前回の日記からはや10日 が経っていて、これじゃあ固定さんに申し訳がないというか、愛想つかされるのが怖いのでもうちょっと更新頻度を上げなきゃな と思ってます。いつか固定さん50人を目指して、伝説(神話)の世界を見てみたいしね。

2006/9/21 「カイカン」

 蒼天へ風が抜けるような爽快感を味わったことがありますか?…ジェットコースター?いや、そんなものは 「蒼天へ風が抜けるような」とは言いません。…山に行ってマイナスイオンを身体いっぱいにあびた?まだまだ。 …カラオケ?馬鹿いってんじゃないよ。どうも現代人の快感には、なにかしらの「業者臭」がするというか、カラオケ にしたってマイナスイオン(未だに実体がつかめません)にしたって、映画にしたってゲームにしたって、なんとも人為的な感じ がして「脂ぎったヒト科の指紋がついてる感」がプンプンしますね。まあそんなことはいっても、俺だって普通に映画を見て泣いたりするから、「その 快感はニセモノなのだ!」って声高に言うのにははばかりがあって、要するにそういう業者臭のする作られた感動が生み出す 快感も快感のひとつとは認めるけど、それが「蒼天へ風が抜けるような爽快感」であるとは言えないと、そういう話。

 それでもって俺が考える「蒼天へ風が抜けるような爽快感」だけど、このレベルの爽快感を味わうには心が子供でないと いけないんじゃないかと思います。別に大人じゃあダメだってことじゃなくって、心が子供じゃないといけません。人は だいたい高校を卒業したあたりから、かつてクソみたいだと睥睨していた大人の仮面を平気でかぶるようになるため、したがって その時期から子供の心は急激に失われることとなります。大人の仮面は某ゲーム風にいうと「呪い」のついた装備品であるため、 一度つけたらとれません。何かのイベントがない限り。だから「蒼天へ風が抜けるような爽快感」は、子供時代の話になります。 となりのトトロみたいなものですな。

 あまり引っ張りすぎるのもよくないので書きますが、それは「喧嘩した友達と仲直りする時」じゃないかなあと思います。 小学生の頃、特にそういう場面がよくあったように覚えているんですけど、あの頃は本当にくだらないことで友達と喧嘩したもの です。家庭科の裁縫の時間に、友達のまち針を抜いて泣かした思い出とか、下校中にいっしょに帰っていた友達がこけたのを爆笑 したため泣かしてしまった思い出とか、友達のもっていた自転車が赤かったのを「女の子みたい」と言って泣かしてしまった思い出 とか。なんか全てが「泣かした」結果「心が締めつけられた」思い出ばかりなのですが、思い返してみれば俺はよく友達を泣かして いたのかもしれません。逆に俺は「人に泣かされるのが大嫌い(誰だってそうだ)」だったので、決して人前で泣くことがなくって、 唯一そういうカタチで泣いた記憶があるのは、自衛官である伯父と喧嘩した時のことくらいかなあ。いずれにせよあの時は、いつか 絶対に殺してやる(社会的に)というくらいに闘争心がむき出しになっていたのを覚えています。どうでもいいね。

 しかしながら「友達と仲直りした後」っていうのは本当に、いままで長い間風が通らなかった部分(脇の下とか頭皮とか)に ヒャッと風が通り抜けたようなというか、かゆいような恥ずかしいような悶えたくなるようなキモチ、そして「心が再びつながった感じ」 とか「なんでいままで悩んでいたんだろう」という事後感のようなものが奔流のように小さな胸に流れ込んでくるあの感動というか…。いやあ、忘れられ ませんなあ。俺ってば人を泣かしちゃった時はすぐに「ごめんな」と謝る人間なのですが、たまに「意図しないカタチで相手を傷つけて しまう」ような場面があって、そういう時にはとっさに謝れず、しかも謝る機会を失してしまうと、決して後からのこのこと相手のほうへ 歩み寄って「ごめんね」とは言えない性分だったため、そういうときはとても苦しかったものです。

 じゃあそうなるともう仲直りできないんじゃないのって気がして文字通り「絶望的な」気分になるんだけど、実は泣かされた相手 のほうも家に帰ったら俺と同じコトを思ってるんだな。翌日になると、その空気にたえられなくなって、どっちかが「どうでもいい話題」 を相手にふります。例えば、「定着EXE(そういう宿題があった気がする)教卓の前にだせばええんかな?」とか、第三者を交えてゲームの話 なんかをして、会話の流れで自然と「アレ(ゲームの内容)すげえよな?」みたいなアプローチで何気なく会話をして、最後には笑いが起こ ってバンバンザイみたいな流れ。双方何気ない様子を装ってはいるんだけど、内心そういう成り行きにハラハラドキドキしていて、失われた会話がひとつまた ひとつと積み重ねられるごとに、なんともいえない快感を感じます。そして、喧嘩した後の友達とは、よりいっそうのキズナができたような 気がすると。高校生の頃にも何度か喧嘩はしたけれど、いちばん仲直りに時間がかかったのが5日くらいだったから、それから考えると子供の 喧嘩ってのは仲直りが早い。ちなみに高校生にもなれば、仲直りしたくないヤツとは普通に卒業するまでソッポむいていたりということを するようになるので、そこで仲直りできるというのはまず仲のいい友人同士だと考えていい。喧嘩するほど仲が良くなる(仲が良い)って公式だな。

 でも、高校を卒業してしまった今、もう喧嘩すらできなくなりました。喧嘩をすることの辛さは誰もがよくわかっているから、誰もが 慎重になって、秩序というものを重んじるようになる。秩序を乱す人は白眼視され、社会的にも相手にされなくなるため、誰もが無言で仮面を かぶらざるを得ません。かくして仲直りという儀式による結束の強化という光景も大人の間には殆どみられなくなるわけですが、この頃から ますます「快感を得る」という行為に人間臭さがつきまとって、子供の頃に感じることのできた「遠さの感覚」はどんどんと失われていって しまいます。それでは大人になってしまったら、もう「蒼天に風が抜けるような快感」を得ることはできなくなってしまうのでしょうか?

 俺はひとつ見つけました。大人でありながら、限りなく心が子供に戻る瞬間。仮面をはずして、遮蔽物なしに外界を望める無垢なる視界 が得られる瞬間。それは夢の中だと思います。それも俺が最近久しぶりに経験したことをお話したいのですが、ある朝目が覚めると、自分の頬に 涙がツーと伝っていたのです。視界が液体で歪んでいたので、服の袖でグッと涙を拭うと、そこには午前10時くらいの太陽の光が部屋を満たして いました。あれ?俺は何の夢をみてたんだっけ?確か「誰かが死ぬ夢」だったような気がするんだけど…と思っていると、少しだけ夢の中での 記憶が蘇ってはぼやけ、消え、 また表れを繰り返します。結局おぼろげにしか思い出せないのだけれど、何か哀しいことがあって泣いていたはずなのに、 なぜだか心はすごく軽快で、外の景色も「生まれたばかりの赤ちゃんがみた景色じゃね?」って思うほど彩度が高くみえて、まるで「夢の中にい るあいだに自分のはじまりの日へ戻った」ような気がしました。

 夢ってのは、最高のアミューズメントだと思います。哀しいことも、楽しいことも、その夢でどんな体験をするのか知らないけど、それらは 全て脳が欲しているものなんだと自分は思うことにします。なんか矛盾してるような気がするけど、何か哀しいことがあって大泣きしたというのに、あの朝 の爽快感というのはちょっと説明がつかないものがあります。あれは「あっ、夢でよかった」とかそういう落差からくる安心感とかじゃあなかったな。もしか すると泣くことってのはすごい快感なのかもしれない。確かに、泣いてる瞬間は完全に大人とか子供っていう区分を超えて、赤裸々に感情をむき出しに している状態だもんな。だったら、仮面を全てとりはらって思う存分「泣かせてくれる」夢ってのはやっぱりいいものだなあと。久しぶりに泣くことが できて、simはなんだかとても浄化された気分になったんだとさ。おしまい。

2006/9/22 「はやおき」

 最近、早寝にハマッてます。そこでちょっとギモンがわいてくるんだけど、よくヒトが「早寝早起きは難しい」っていうのは、 いったいどうして難しいのでしょうか? このように問われると、大抵の人は「朝、はやく起きるのがタイヘン」って答えちゃうのが普通だと思うけど、実は「朝、 はやく起きる」のはそんなにタイヘンなことじゃありません。

 考えてみれば、はやく寝ればはやく目が覚めるのは当然の話であって、むしろ人間は寝すぎると逆に疲れてしまいます から、ある程度の時間がたてば自然と目は覚めるものです。したがって、タイヘンなのは「早く寝ること」だと思います。

 俺の場合、いままではやく寝ようとする(11時くらい)と、なんだか「もったいない」という感じがして、結局日付が 変わってしまう毎日でした。しかし、はやく寝ればはやく目が覚める。結局、使える時間はいっしょであるはずなんだけど、 どうしてもこの「もったいない」という感覚が行動を妨げることが多くて、定刻のバイトにあわせるために睡眠時間がドンドン と削られ、非常に不快極まりない朝を迎えることになるばっかでさ。

 ただ、早寝早起きをするようになってからは、実に寝覚めが爽快になりました。いままで俺は自分のことを「低血圧」だと 思っていたのだけど、実はそれは勘違いで、ただ単に寝不足だっただけだったと。こうなってくると、随分と「低血圧」を理由に、 家族に迷惑をかけてきたことが悔やまれますなあ。

 こうした経験から、安易に「睡眠時間を削る=使える時間が増える」という受験生的な考えをしちゃあいけないなと思いました。 なんかのテレビに出演してた弁護士さんも、「私は睡眠時間だけはどんなことがあってもタップリとる」と言っていたように、「睡眠時間 をしっかりとる=使える時間が増える」と考えるべきでしょうな。

 なぜなら、眠たい状態では頭が働かないからです。体力も消耗するし、睡眠時間が少ないときのバイトの辛さは異常なことは、 経験者のヒトならよくわかるかと思います。それより、6時間なり7時間なりしっかり寝て、翌日の17、8時間を最大限に生かせるように すべきです。そういえば、受験の時は「眠い眠い」といっていたヒトがたくさんいたけど、いまから考えればあれは病気だよな。4合5落なんて のは悪質な宗教だよ。

 できれば、「朝からランニングしたいなあ」、なんてことを考えているのですが、あまり早計になんでもやってしまうと 3日ぼうずになってしまうのがオチなので、まずは10時に寝て5時に起きることを心がけたいと思います。今日はちょっとためになる話 をしてみました。それでは、ごきげんよう。zzz

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