2006年6月21日〜7月20日

2006/6/21

2006/6/24

 もうちょっとで思い出せそうなのに思い出せない夢について考えていたら、 自分の脳が「水槽の脳」なのではないかと馬鹿なことを考えることを厭わしく思い、 とにかく今は風呂に入るべきだろうと考えを他に移す。因みに「水槽の脳」について 話しておくと、水槽の中には俺の肉体は無くて、むき出しの脳だけが無数の電極に 繋がれて浮遊している。脳のある部分に電極をブッ刺すと、過去のある記憶が完璧な ほどリアルに再現されるらしいが、つまり俺は記憶の中で永遠に生きているわけだ。 夢には色が無いとか、ほっぺを抓っても痛くないとか言うけれど、はっきり言って 薔薇が赤かったこともあったし、普通に殴られて痛かったこともあった。夢が覚めた 夢が覚めた夢ってことを考えて行くと、出口の無い逆説にブチ当たる。クレタ人は嘘つき であるって言ったクレタ人のエピメニデスも同じ逆説の渦に巻き込まれた。クレタ人が もし嘘つきならば、エピメニデスの言ったことは正しくなるが、それが正しかったらクレタ 人は嘘つきだっていう言葉に反してしまうから。そう言えば数学にも、そういうよな逆説があったよなあ。

 夢を見易い状況はある。俺は病気だから何度も二度寝を繰り返す。もう十分寝て脳 が覚醒状態にあるのに、それでも寝ようとするから体は寝ても脳だけは起きてて、本来現実世界で 活躍すべきはずの脳が、記憶が生んだ想像の世界でめくるめくアドベンチャーを繰り広げるという。 だから俺は、病床に耽っておりながら毎日がアドベンチャーなわけ。でも現実世界には寂光が 窓からさす部屋の中で、弱々しく一人の男が眠っているだけだという、この切ない対比は何。 エヴァンゲリオンの主人公みたいだよな、妄想の世界で生きるって。あっ、もうちょっとでいい所 だったのにって修学旅行の時に怒ってた沢田みたいだ、こっちは「どうでもいいじゃん」って思ってる。 俺はそんな惨めな醜態さらしたくないから、とりあえず起きて活動しなくちゃって思ってたわけ。でも夢を見る事は 良いことだよやっぱり。俺は至福の夢の中で溺れたいっていう願望が少なからずある。でも最上の夢を見るためには、現実世界でいろいろと ネタを仕入れる必要があって、その材料を使って、脳がいろいろと俺に奉仕してくれんだ。 現実世界で凄く美人な人を見かけたとすると、脳は夢の中でその美人との不思議な邂逅を許してくれるんだ。 夢みたいな夢だよな。ああでももし沢田が美人と話してたとしたら、やっぱり沢田可哀相だな。所詮、人は自分の夢の世界だけが大切だってことなのかなあ。

2006/6/30

 最近「制限速度20〜30km/h」のほうで特集している憲法が面白くってビチャビチャサイト 本体の方がお留守になりつつあるという苦々しいながらもどこか甘美な今日この頃でありますが、 心の奥底にある真の異常性というか野性を眠らせておくためには、擬似的に作り出された異常性の 世界にドプリと使っておくこともまた重要であるように思うゆえ、私はムスカ様みたいに何度でも ここに蘇ります。―そう、何度でも蘇るさ!

 今後のテーマは当分「日常の中の異常性」になるかと思いますので乞うご期待。

2006/7/01

 異常ですね異常ですね世の中って本当、異常ですね。もしかしたら僕だけが異常なのかもしれませんが、 ちょっと聞いてください。僕の友達で大学生活に上手く適合できてない人がいて、僕はそんな彼を元気付けて あげたいと思うのですがこれって異常なのでしょうか。綺麗ですね綺麗ですね夏の並木道って本当、綺麗ですね。 そんな綺麗な並木道を憂鬱な気分で登校しているんだろうなと彼のことに思いを馳せると、綺麗な並木道も残酷 に見えてくるから人の心って不思議ですね。元気付けてあげたいと思っても、鬱の人は放っておいたほうがいい という話も聞いたことがあるし、それでもどうにかしてあげたいと思って話しかけていると、何か得体の知れない 「任されている感」が生じて(彼は話題に乏しいから振ってあげるのです)、あっ、やっぱりやめたと匙を投げたくなる この人間としての素直な気持ちに耳を傾けて良いものか本当に迷います。

 それにしても最近は襟首つかんでバッサバッサやりたくなるくらい暑くって、座敷で障子開け放って、 蚊取り線香の香りをかぎながら溶けかけのアイスにむしゃぶりつきたい妄想に取り付かれているのですがこれって 異常ですか。自分以外の人は今どうしているのだろうかと遠く思いをめぐらすのってこれ、異常ですか。 僕がこうしてアイスの妄想しながら自転車をこいでいる間に、みんなどうしているのかなって。 充実しているのかなって。そこまでゆくと「充実って何か」についてついつい考えてしまって、例えばあの人は すごく「充実している」ように見えるけど、実は内心憂鬱なんじゃないかとか、僕はいま凄く気分がいいのだけれど、 中には僕のことを「充実してないんじゃないか」と猜疑している人がいても不思議じゃないなとか、 だって人を判断するのは誰だって外見からなんだからって思うこと、これって異常ですか、だったら云って下さいね。

 自分だけひとつ顔っこ抜け出してやりたいって思うこと、これって異常ですか。膨らんで広がりたいって 意識とでも言いましょうか、いつかいままで会った人たち全員に立派な態度で臨みたいと欲し、そのために今の自分を 少しずつ変えてゆき、小さな積み重ねで大きな差を作ってしまうのです。そうして晴れて再開したあとに待っている のはひょっとして「虚しさ?」と一瞬不安になること、これって異常ですか。そしてその下らない妄想がもしかすると 今の自分の飛躍をためらわせているのではないか、またその躊躇いともいえる怯懦が一歩進むことの障害になっている のではないかと思い、前向きな目標を箇条書きにしてベットの横に貼り付けている、これって異常ですか。誰かの良いところ を真似てみて、いつの間にかそれが自分のものになっていることに喜んだのもつまる所は茶番劇で、 本当は自分は自分以外の人にはなれないと気付き、目標に憧れ模倣する過程で得た新しい個性にこそ本当の可能性と喜び があることを知ったあの日を思い出し、いまは目標とする人と道を違うてしまったことに切なさを感じること、これって異常ですか、 もし異常だと思うなら、素直に云って呉れれば良いのです。

2006/7/02

 多くのヒトが「密度の濃い人生を送りたい」とか「今この時間は世界の何処かの或る人が生きたいと 切望した時間なんだよ」とか言って自分の人生を「豊かに」しようとしますが、そもそも「豊かに」って何なの? 美味しいご飯を食うこと?素敵な恋を見つけること?金をたくさん蓄えること?いろいろ考えた結果、 結論に至る過程を省略して僕が思うところは「時間を惜しむ」ことに他ならないということに辿りつくんですよ。 「この幸せな時が永遠に続いてくれたらいいのになあ」とか 「やりたい事が多すぎて時間が足りないぜ」とか「もうちょっとで欲しいものが手に入るのになあ」とか、 「豊かな人生」は時間に関わっていることが多くて、「○○大学に合格したぞ!」なんていう喜びも詰る所は自分が 身を粉にしてかけてきた時間が報われることによって生じるのであるし、これと反対の「宝くじが当たった!」などという 短絡的な喜びも「将来に起こるであろう幸福(時間をどのように使うか)」に関わっています。もっとも将来に起こるであろう というのは希望的観測に過ぎないのだから、その人がどのように動くか(時間を捉えるか)によって、その人の 人生は「豊かに」なるかもしれないし「豊かでなく」なるかもしれません、あくまで主観的に。言い換えれば「豊かな人生」 とは現実に働きかけるエネルギーが自分の内部で躍動している状態を言うのであって、その結果が赴くところは 当人にはわからないのが原則であり、結果が見えないからこそ人はそこに希望を抱きます。しかし過去に「漠然とした不安に 取り憑かれて自殺した」哀れなヒトがいたように、結果が見えないからこそそこに絶望を感じる人がいるのもまた 事実であり、それだけ未来は大きな力を持っていることが分かります。良くも悪くも未来に思考する人は、 そこから現在の自分に意識を戻してしばし考え、これからの時間の使い方について思いをめぐらし、そして行動します。 未来をどれだけ大きく捉えるかは、頻度と規模と場合によって人それぞれ千差万別であるかと思いますが、ただ「今晩のおかず」 を考えてスーパーに足を運ぶ主婦、「明日の学会」を考えて原稿を見詰め直す大学教授、「5年後の弁護士になった自分」 を夢想して民法の勉強に励む学生の間で、客観的に「どれがイチバン豊かな時間か」を相対化することは不可能といって いいですから、あくまで「豊かさ」とは主観であり、自分以外の人間と自分の「密度の濃い人生」は本質的に、その存在の 次元から言っても全く別物であるという前提を知らなくてはなりませんね。

 他人の目と、耳と…全てを体験できればいいのに。

 アノヒトニナリタイ アノヒトニナリタイ アノヒトニナリタイ アノヒトニナリタイ

2006/7/11

 ガラスのコップを叩き割ったら、なんだか新しい風が身体を通り抜けたような気がして すごく透明な気分になれました。数々の脱皮を経験してきて、自分では立派な甲羅を手に入れた といままでずっと思っていたけど、やっぱりその甲羅は見えないガラスで覆われていたのです。 多少傷つき易くなったかもしれないけど、やっぱり直に世界を感じてみたい、そのためには見えない ガラスは叩き割ってしまう必要がありました。

2006/7/10

 中国で学んだこと。

 朋友には侠気を。己のことを顧みず。

2006/7/05

 アタック25で最初に答えた人のパネルは、大抵後から答えた人のパネルの色に染められてしまいます。 最初に景気が良くやりすぎてしまうと角が取れなくなってしまうし、他の人に一気に取り返されてしまうリスク が常に付き纏うので、僕は問題に答えるクイズ回答者としての素養以前に、パネルの取り方を勉強すれば良いのに と思います。

 新参者はやりすぎないほうがいい、ちょっと駄目なくらいが丁度良い。新しい環境で、自分の能力の全てを 最初から明かさなくたっていい。能ある鷹は爪を隠すというわけではありませんが、能があっても能がなくても、 最初から飛ばすのは客観的に危険に満ち溢れています、なぜなら人は余裕のない人間には内心薄情だからです。 自分の限界を感じてはいけない。常に心に余裕をもっておけというより、寧ろ堕ちてみたほうが今後の為に必要です、 もちろん完全に堕ちてしまわないように命綱をつけておくことをお忘れなく。イチバン駄目なのは「本当は自分は出来るんだ」 と思い込んで「やらない」ことであり、ニバンメに駄目なのは「私の能力はこんなもんだ」と思い込んで「できない」ことであります。 また人は正常でいるべきではない、誰しもの心の中に潜んでいる異常性を自ら発見し、その異常性と上手く付き合ってゆくこと。 「私は人と違って…なんだよね」という部分を大切にし、その部分を用いて自分の世界観を創造すること。

 堕ちる方法を身につけた暁には、逆転劇が待っています。もともと堕ちた人間、何処までも行けるだけの度胸は ある、向かうべしと信じる所は光、そも闇の部分に於いて濡れて在ること必定、振れた振り子が戻るように、失われた 時間と活力が復元増大されてゆく。何時でも本気を出せる状態を作り出しておき、死ぬまで本気を出さないが良し。 また死ぬまでに一度くらい本気をだしてみるも良し、しかれど「私は本気を出していない」という力強い心を持つこと。 まだ行ける、どこまでも行ける―前後に際限なし。

2006/7/20

 「子供のような純粋な心」って言いますが、手放しに褒めるのもどうかなと思いますよね。 実際に友達に「子供のような魂を持ったヤツ」なんて言葉がぴったりくるような人がいると思う んですけど、大抵そういう人って鬱陶しいでしょう。純粋な心ってのは、まだ心に広大な余白 があると同時に、心に何も完成したものがないということでもあって、要するに確固とした自我がない。 つまり「自分」のことが最たる関心事だから、他人のことを考える余裕がない。「子供には無限の可能性 がある」というのもそのことを裏付けていて、何にでもなれるということは心の中に倣岸さを生む。 子供がやたらとサラリーマンにはなりたくない、と思っている理由もそこにあって、本当は「やれば」 自分が一番だと思っている。だいたい高校生くらいの人までがそう思っていることが多い。

 大人の世界には子供のような純粋な心を発揮させる場所は、意外なほどに少ないことに気付いた 人は多いかと思います。やはり現実の世界は「子供のような大人」を受け入れてはくれませんが、大人が 子供に寛容なのは、それは自分がかつて子供だったからに他なりません。子供のような大人にはむしろ 傍目には分からない真綿にくるんだ敵意を示すのが大人。人は身近な人に敵意を抱きやすいというのは、 大抵の人なら家庭でなんらかのトラブルを経験したことからも分かるかと思いますが、人が憧れを抱くのは、 決まって自分からは遠い人です。テレビの向こう側の人がよくもてはやされるのは、それは遠い人だからです。 身近な人に対して「こいつは子供のような純粋なヤツでね…」という付き合い方をするのは実際には難しい。 やっぱりムカつく、どうしてもムカつく、子供のようなヤツは…俺はいつもアイツに振り回されて…不・公・平だ。

 それでもあなたを囲う人々…例えそれがテレビのなかでも、身近な友達でも…凄い人はどこか「子供のような 純粋な心」を持っているのは何故だ。彼の幼児性を疎ましく思う、私は大人だ、しかしこの輝きはなんだと。 多くの人が子供でいることに「耐えられなく」なって子供をやめてしまうなかで、いつまでも子供でいることの できる人たちはやっぱり凄い。子供でいることは実は難しいことだ、大人の世界で「子供でいる自分」を認めさせる ことは特に。しかしそれに成功する一握りの人たちは、実に異才と呼ばれる。敵意を経験する、圧殺の危機にあう、 それでも自分を貫き通す――自己中心という意味じゃない、世界観を持つということ。本当をいうと、そう在れる 人達こそ本当に自分を持っている人たちでした。「大人としての自覚」の圧力は凄い。僕はみんなに子供でいて 欲しい、やっぱり。自分は他人とは違うと自覚することが、考えることの第一歩だろう。自分は皆といっしょだ、 と思っている人ほど、考え方が偏狭で、そのうち皆といっしょであることに不満を覚えるのが関の山だ。ある程度 他人にあわせておいて、ワンポイントで自分らしさなんて言っている人ほど見た目に浅ましいものはない。 それは結局、だれかがやっていることだと思う。嘘だ、それは、ニセモノだ、それは…。

 敢えて子供でいけ、というこの考えは正しいのかと言われれば、やっぱりそれは「正しくない」でしょうが、 それは10人に9人正しくないのであって、10人に1人は正しいのだと思います。「賭けろ」といいたい?そう、言いたい よ「賭けろ」って。やれよ、やってみろよ子供でいれるかどうかやってみろって、お前にできるんだったらやってみろと。 異才になってみろよ。なりたいと思わないなら、お前はもう子供じゃないってことだよ。

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