2006年9月24日〜11月19日

2006/9/24 「魔法」

 中学校の頃、「20年後の自分」という作文をイヤイヤ書かされた思い出が、急に頭の中にフッとあらわれた。 なんでそんなことを唐突に思い出したのか全然わかんないんだけど、せっかくだからあの頃のことに思いを馳せてみる。

 小学校の頃なんかに、そういうのを書かされたって人は結構多いんじゃないかと思う。笑いを取りたいヤツはだいたい 「お金持ち」とか「総理大臣」、ちょっとひねって「平凡なサラリーマン」などと書いて、普通のヤツは「プロ野球の選手」 とか「花屋さん」とか「ケーキ屋さん」とか書いてた気がするな。俺が書かされたのは中学校の頃だったし、しかも作文を書け とあったため、冗談でも「お金持ち」とは書けなかった覚えがある。それにちょっと「公認会計士」とか「弁護士」とか「警察官」 とか「消防士」とか「教師」とか書くと、なんかマジっぽくて嫌だった。友人にからかわれるからだ。だからみんな、作文を提出するときは 誰にも見られないように、コッソリと裏返しにして教卓の上に置いていたものだった。それにしても俺は、あのとき何と書いたんだったっけか。

 いや、思い出した。「司法書士」と書いたのだった。人によっては「何それ?」といわれるかもしれない職業だが、まあ弁護士に似たような ものであるが弁護士より業務の幅が限られているものと思ってくれればいい。本当は「弁護士」になりたかったんだけど、なんか「弁護士」と 書くと例によって友達にからかわれるような気がしたので、中学生にとっては妙にリアルな印象のある「司法書士」としたわけだが、まあこのように人は 子供の頃からなにかしらの秘められし夢をもっているものである。それがたとえ、定職につかずにノンビリとアルバイト生活をする、というようなものであっても。

 あの頃からはや数年がたって、俺はいま大学一年生である。ここまでくると、だんだんと「夢」が夢のままであることはできなくなってきて、 その夢が本当に実現できそうか、はたまた夢破れて別の道を選択する必要に迫られるか、傍目にも見えてくるものである。高校での友達にしたってそう。 俺は何々になりたい、などといったようにお互いに夢をもっていっしょの道を歩んできた友達だけど、これから将来が楽しみだなあってヤツもいれば、 こいつはもう駄目なんじゃないかってヤツもいる。幾万もの夢が、いま世の中のあちこちで壊れ、数千の生き残った夢がどんどんと膨らんでいるって のが、今の大学のイメージかな。…俺の夢はどうなっているかって?幸いにしてまだ壊れてはいないけど、実現するかどうかはこれからの6年間が勝負っていうところだ。

 アメリカかなんかでの研究で「夢その後」ってのがあるらしい。中学生だか高校生だかに「アナタは将来にどのような展望を抱いていますか?」という 質問を投げかけ、それに「今より良くなると思う」、「今と変わらず普通だと思う」、「今より悪くなっていると思う」という三択で回答させ、その 結果を彼らが成人してから再び彼らに問うというものらしいんだけど、どのような結果になったと思いますか?回答者の80パーセントが「悪くなっている」と答えた んでしょうか?それとも底抜けに明るいイメージのあるアメリカ人のことだから、「今より良くなっている」と答えた人が増えていたのでしょうか?

 答えはビックリ、「変わらない」んだそうです。つまり、中学生か高校生かの時の将来の展望は、そのまま大人になっても反映されていたというわけだ。 将来に希望をもっていた人は、将来的にも「良くなっている」し、普通と考えていた人は「自分は普通のまま」だと自己評価する。悪くなるだろうなと思っていた 人は、本当に「俺はダメだ」と考える。これは実質を捉えた結果ではなく、あくまで本人が主観的にどう感じているかが主旨となってはいるものの、 客観的な体裁はどうあれ、本人が現状に満足しているか否かというのは、人生そのものに深く関わる重要な要素であると思う。確かに思い返してみると、 将来に希望をもっていたヤツには成功している例が多い。逆に将来に対して投げやりだったヤツは、今も見事に不安で投げやりな道を歩んでいるように思える。

 まあこれは、こういう信頼できる「確からしいデータ」が存在するから、なんだかそういう気がしてくるという単なる人間心理にすぎないのかもしれない けど、それにしては妙に説得力がある気がした。それに、人間ってのはそういう簡単な暗示にいとも容易く影響されてしまうところがあって、子供の頃から母親に 「あんたはクソだわカスだわゴミだわ生まれてこなきゃよかったわ」って言い続けられて育てられたら、「俺はダメな子供なんだ」と思ってイジけてしまうだろうし、 「お前はやればできる俺の自慢の息子なんだそうだそうなんだ」って言い続けられたら、それとは大分違った子供に成長するだろう。しかもこのように他人に 暗示をかけられるのならまだしも、自分自身が心から思い込んでいることが自分自身に与える影響ってのはバカにできないものがある。

 よって、「もしかしてダメなんじゃないか」なんていう不安要素はあって当然(むしろ難しいからこそ夢)なんだから、そういう不安に憚ることなく 堂々と「自分にはこうなりたい夢がある」って、朝起きる時と夜寝る前にでも唱えてみればいいんじゃないかな。急にやるとなんだか「やっぱダメなんじゃ…」 と弱気になることがあるかもしれないけれど、何度も繰り返しているうちに、少なくとも「夢に向かって頑張る自分に対する恐れ」はなくなると思う。やっぱり イチバン怖いのは、心が折れてしまう自分だと思う。分かり易く言えば、十分伸びる余地があるクセに受験前にビビッて志望校を下げてしまうようなことで、実際に 高校時代にもそういう惜しいヤツがいた。結局そいつは下げた志望校にも落ちてしまったが、尻尾を巻いた犬はどんな子犬にも絶対勝てないっていうのと同じような ものだったと思う。逆に平凡なのに実力より「高望み」していたヤツは、夢かなわずともそこそこ穏当なところまで手が届いていたってのが世にも皮肉な話だよな。

 日本に昔からある言霊思想ってのは、確かに現代に生きてる感じがする。受験の時の「落ちる」とかはそうだよね。「あっ、箸が落ちたわー…」って言ったら、 「あーあ」とか言われた。「なんか雨が降りそうな気がする」と言って本当に雨が降ったら「ホントに降ったじゃねえか!」って冗談半分で怒られたり。ホテルに 泊まって44号室だったら嫌な人って、結構いるんじゃないかな。大昔の日本にあった呪術なんていうと笑われるけど、実際にある人をターゲットにして 複数の人が「お前顔が真っ青だよ」とか「今日はどうしたの?」とか「何かが憑いてるみたいな虚ろな目をしてるな」などといい続けると、ターゲットになった 人は本当に具合が悪くなって寝込んでしまったなんていう実験もある。こんな感じで、言葉は使いようによっては人を呪い殺すこともできちゃうのだ。

 自分という人間に魔法をかけてやることだな、言葉の魔法を。

2006/9/25 「努力」

 あなたは「努力の仕方」を確立していますか?小さな頃から、人は身近な人物に「努力しなさい」と言われて 育つけど、考えてみれば「努力」って言葉にはよくわからない部分がある。努力してるのに、人に「努力しなさい」って 言われたこと、ありませんか?

 俺のバイト先にカワモトさんっていう新入社員の人がいるんだけど、彼はとにかく先輩に「努力しろ」って言われる。 カワモトさんはその度に「はい、努力します」みたいなことを言うんだけど、いつも「お前ヤル気あるの?」と怒られてばかり。 でも、実際カワモトさんは「努力」していると思う。誰よりもよく動くし、昼飯の準備や備品の整理、休憩のお膳立て など下っ端としての役割を全てこなしている。じゃあなぜ、カワモトさんは「おめえもうちょっとしっかりせえよ!」とくる日もくる日も叱られてばかりなんだろうか。

 それは無駄な動きが多いからで、カワモトさんは何事にも要領が悪いので、よく注視すると素人のバイトから見ても必要がないと 一目で分かるような作業を延々と一人でやっていたりする。さらによくよく観察すると、難しい作業を避けるため(怒られるから) に、ワザと雑用のような仕事ばかりやっているようにも見えてきたりね。このことから、「努力」とはその努力が結実すること ではじめて「努力」として成立するということがわかる。言い換えれば、頑張っているから「努力している」とは言わないということだ。

 このように、厳しいようにも思えるが、「努力」は主観と客観によって異なるらしい。あるマラソンの選手がオリンピックで 「自分で自分を褒めてあげたい」とテレビで言っていたことがあるが、これは主観による評価。社会の大部分のシステムは、上部構造によって 下部構造が評価されるようになっているが、これは客観的評価である。だから我々は、より後者の方を意識することを知らず知らずに強いられるというわけだ。

 ここで整理してみるけど、努力というのはその努力が実を結んではじめて努力たりえ、さらに世の中における「努力」という言葉のほとんどは、 社会的な評価として用いられることをまず押さえておきたい。そのことを踏まえた上で、自分の考える「努力の仕方」について少しだけお話したいと思う。 ひとつニヤニヤして聞いてやってください。

 部活で武道をしていて思うのだけど、やっぱり人には上手い下手がある。ここで俺は同期のみんなや先輩を観察していて気付いたことがある のだけど、「努力の量」はかならずしも技の巧拙には結びつかないのではないかと考えた。もちろん先に書いたように、「努力」とはそれが結実して はじめて努力というのだが、どうも重要なのは「努力の仕方」ではないかと思うようになった。これは「努力の質」とはまた違う概念である。

 分かりにくいだろうからちょっと詳しく説明すると、俺は日々の何気ない観察のなかで、ある法則を発見した。というのは、「ひとりで 練習している人は上手い」ということである。もちろんその人たちは、皆で練習するときにもしっかり顔を出している。ただ、彼らはその時間は 「ひとりで練習した成果の発表の場」としているため、必然的に「皆で練習する場」を練習の場としている人とは技の質が違ってくる。そしてまた、 そんな場所を練習の場としている人たちは決まって「ついてゆけない」と焦る。まあこれは当然といえば当然の話ではある。ひとりの時間で得た確信 から生じた自信が公開の場で余裕を生み、その余裕がさらなる余裕を生む。そうでない人たちは、焦りが焦りへと変わってゆき、いずれ 「できない自分」に耐えられなくなるというのが人の情というもんだ。

 これは人によって差があるかもしれないが、基本的に人は人前と自分ひとりの時では全く別の人間である。人前にでると人は仮面をかぶるものだから。 だから俺は幼馴染のベンと、大学の友達のタカハシくんと接する仮面は全然違うし、さらに一人でいるときはそれらの仮面を外して、おぞましい素顔で 傍若無人に振舞う。だけど、この傍若無人というのが大切なんじゃないか。人前では「恥ずかしい」とか「気兼ね」といったものが邪魔してギクシャク していたものが、一人になることによってとてもスムーズになるように思う。俺の考えでは、陰の努力が80%、人前での努力が20%くらいがちょうどいい。 陰80%の努力をしていれば、人前にでても「努力したね」とクチに出さずとも評価してもらえるてなもんだ。人前でだけ努力していても、「努力」となるかは怪しいしな。

 ただし、ヒトコトだけ言っておきたい。 「努力は人のためならず」、と。

2006/10/4 「理由」

 危なかった。

 何が危なかったのかというと、昨日一昨日の二日間で、完全な畜生道へと堕ちつつあったからだ。 いきなりなんだと思われるかもしれないが、まあ聞いてくれ。実は一昨日、すげえ面白いゲームにハマっちゃって、 一日24時間中16時間は画面の前という凄まじい状態に陥っちゃったのだ。そのゲームの名はcivilyzationっていう 洋ゲーなんだけど、まあそのゲーム自体の詳細はいいか…とにかく死人のようにバーチャルな世界にのめりこんでいて、今日から 夏休みが終わったから現実に帰ることができたものの、これが夏休み中盤くらいだったら、もしかしたら俺の人生が終わってたかもしれん… っていうくらいだったわ。

 俺がバーチャル世界で現を抜かしていたその頃、どうやら部活では「秋刀魚を食べる会」というのをやってたらしく、 しかも参加者が四人とかいう壊滅的状況であったために、「貴様も来い」とメールを貰っていたのも全部無視。先輩の誘いを断る どころか無視するなんて…ケータイに虚しく表示されていた「着信アリ」に気付いたのが着信から数時間後。「ああ、もう俺は どうしようもないな、だめだ〜」と思いつつ、謝罪のメールも打たずにひたすら画面に向かう姿は、まさにクソ男としかいいようがありませんな。

 まあ、そんなこんなでなんとか脱出できました。何かこう…生きていると、例えば俺なんかだと学校で講義を受けたり、部活の練習をしたり、 バイトをしたり、自分で勉強をしたり、本を読んだり、たまに鍛えに山に走りに行ったりするわけだけど、ある日絶対に「危機的状況」ってのに 遭遇するんだよね。しかもそれは、例えば学校の講義だったら「講義おもんない」、また部活だったら「練習についていけなく なった」、バイトだったら「バイトきつい」、自主勉だったら「辛いから嫌だ」、本を読むんだったら「めんどくさくなった」、山に走りに行く んだったら「身体が苦しい」といった按配の理由で訪れる(危機的状況が)んじゃないんだな。

 ある日の夕方。フッと、誰も気付かないような田んぼ道の路辺の草むらで蜻蛉が命を落とすような感じで、何かが消えるんだよな。 いままでの行動を持続させていた、「情熱」とか「理由」とか「使命感」とかじゃない、言葉で定義されてないアノ気持ちがフッと消える。それをさ、 何かしら俺なんかは上記のような理由で「そうなんだよ、俺はこうだからやめようと思うんだ」って自分を納得させようとするんだけど、 これは違うね。

 そもそも遡って考えてみると、人が何かを「やろう!」と思って例えば「勉強するぞー」って誓ったとして、それはなんで勉強をやるのかって いうと、各々なにかしら勉強をすることによる利益を欲するからなんだけど、大抵の人は無意識に「勉強ができることによって生まれる利益」は 小さい頃から理解しているはずなので、漠然と「勉強ができるようになってイイ感じの自分」という理想を頭に思い描いて行動を開始するんだと思う。 わかりやすく言うとそれはパブロフの犬みたいなもんで、鈴が鳴るたびにエサをもらっていると、そのうちエサをもらわなくても鈴の音だけでヨダレがでてくるようなものだな。

 だけど、行動を持続させるものは、その最初の「理由(利益)」からじゃないと思うんだな。それはどういうことかというと、なかなか「勉強することに よって得られる利益」 だ け を理由(糧)にして、行動の動機にできる人ってのはなかなかいないはずなんだ。「いや、俺は公認会計士なりたくて 勉強してるんすけど」ってツッコまれそうで恐いんだけど、俺が言いたいのはそうじゃなくって、つまり、「公認会計士になりたいんだ」っていう理由を 人は脳ミソのなかで何か別のモノに変換してるんじゃないのってことだ。

 こんなお粗末な説明で納得されるわけないことはわかっている(納得できるとしたら、その人とはイイ友達になれそう)ので、例え話をしたいと 思うんだけど、これはちょっと例えがいろいろ(しかもケースによって全然アプローチの仕方が違うし)あってどれを説明していいんだろうかすごく悩む …既に上の例にでた話題でゆけば、例えば部活をしていて俺はよく思うことがある。俺が部活をはじめた理由は、「先輩がいい」、「ちょっと変わったこと をやってみたい(一種のステータスにもなるのでは?)」、という程度の気楽なものだったわけで、もちろんその初期の理由はどんどんと変遷を遂げていって、 「コレおもしろい」だとか「友達がふえて嬉しい」とか「やりがいがある」とかいった風になっていくわけだけど、ある日フッと、「あ、やめてもいいかなあ」 とクソみたいな感情に犯されたことがあったのだ。

 そのとき思った。理由ってのはホンマに残酷なものですなあ、と。なんか違うんだな…その「先輩がいい」なんていう理由や、「やりがいがある」とかいう 理由は、どうも違う。結局本当に止めることになるとしたら、きっと「人間関係がだるい」とか「これ以上やってもちょっと上手くやれそうにない」とか「時間 が食われすぎる」とかいう理由を考えることによって自分を納得させるんだろうけど、フッと「やめよう」と思ったときには、そんな理由は確実に頭のなかにないからね。カクジツに。

 なんといったらいいか…今、もう何処まで上ったのかすらわからない、雲と同じくらいの高さのマンションのとある一室のバルコニーの欄干にもたれながら、パジャマ姿で眼下を ボーッと見下ろしてる。俺だったら大抵、フッと、「飛び降りたら…どうなるだろう…」とか考えるだろう。頭からゴシャッと落ちて脳漿を遥か下のアスファルトにぶちまける…その 光景を思い浮かべたあとに、落ちて地面につくまで、自分はどんなことを考えるだろうかということをボンヤリと考える。お母さん悲しむかなあ?その瞬間の 時間は長く感じられるのだろうか?…と考えたところで、「急に思考がとまる」。後ろを振り返り、自分の部屋に入り、窓を閉める。「ああ、腹減った…飯」 と現実に戻る。その「急に思考がとまる」瞬間は、その「やめよう」とフッと思う瞬間に似てて、そこには「死」だとか「痛み」とか「周りの人」とかいった 「飛び降りない理由」は直接的に一切介在しないと思うんだよな。

 「脳ミソの中で理由を別のモノに変換」してるってのはそういう意味だ。「なんで飛び降りないの?」って言われたら「そりゃ落ちたら死ぬ。 死んだら何もかも終わり。しかも痛みを伴う。お母さんも悲しむ」とか言うんだろうけど、自分の脳に言わせりゃあそれは「へへ、コイツ何か言ってるよ」って バカにしたい気分なんじゃないか?例えばもし、欄干にもたれている自分のお尻を、急にだれかが押し上げてきたとしてみ?「死ぬから」とか「痛いから」 とか「周りの人が」とかいった言語化された理由なんてパーッと忘れて、たぶん俺は身体を外に投げ出されつつ、必死の形相で欄干にしがみつくからさ。 自分をみたらわかるように、人間ってのは現金な生き物だからね。これから自殺しようってクビにロープ巻きつけてる人にカンチョーしたら、案外キレてこっちを殴ってくるん じゃないか。「どうせ死ぬんだからいいじゃないか」って言っても、相手は「それとこれとは別だ」と怒り狂いつつも、案外心の中では救われてるのかもしれないってんだから。

 かなり胡散臭いんだよな、言葉で紡ぎだされた理由ってのは。説得力ってのは言葉で表現された理由のなかにあるんじゃなくってさ、例えば尊敬する人 の言葉を聞いて、「すごい、感銘を受けました」なんて思っちゃったりする(言葉で表現すると)わけなんだけど、その尊敬する人の言葉が理由になって俺は感動 するんじゃなくって、その言葉はその人のものじゃなくってもはや自分のものっていったほうがいいよね。そりゃ同じ人の言葉でも、聞く人によっちゃ「すげえ」って 思う人もいれば「調子づいて…バカが」って思う人もいる。言葉っていうのは刺激だから、その刺激を受けて自分のなかにある脳みそがうまくスイッチを いれてくれれば、その言葉は結果的に「すげえ」んだろう。結果的にってのは、最終的に人があらゆる世界の事象を認識するのは言葉によるって意味でだよん。 俺がカナダに行って驚いたのは、カナダ人たちといっしょにホラー映画をみていて、日本人ならありえないような場面で場内大爆笑だったことだ。同じ映像(言葉) なのに、彼らは笑い、俺は引いた。宗教も、きっといっしょなんだろう。

 ここまで考えると、理由ってのは=言葉だよな。ここに言葉が喋れない人間がいたとしてみ?はい、赤いリンゴをみつけた。これは「赤」であるということを、 その人は知らない。はい、次に黄色いバナナをみつけた。これは「黄色」だということを、その人は知らない。でも区別はつくんだよな、赤や黄色ってのは、別に 赤外線や紫外線じゃないんだから、当然人間には区別できる。この区別が言葉の始まりなんだろうけど、まだ言葉じゃない。言葉はそれを「赤」とか「黄色」と 命名するようになってはじめて言葉の要件を満たす。そこから理由が生まれる。そして次に「赤いリンゴおいしい…じゃあこれはどうだろう」って手に取ったのが、 「赤いリンゴ的な毒虫」だったとして当然そのリンゴモドキを食ったら死にそうになっちゃった。「ぐるじい…なんでだ?」。理由は、「赤かったから」じゃない。 それはリンゴを食ったときに得た「赤いものはおいしい」という経験に矛盾するからね。そうやって人は太古の昔から、森羅万象にオノレの経験と矛盾しない「確かな理由」を探しもとめてきたんだろうな。

 それが生き残る手段でもあったわけだし、人がなにかにつけて理由を追い求めるのも、もっともな話ですなあ。しかし、それは言葉が始まってから起こった 現象であって、人は言葉を使い始める前から普通に生きていたんだからね。…だから、本当は「赤いリンゴ的な毒虫」には、言葉を用いる前から手を出さなかったんだな。 赤は赤とは呼ばれないし、黄色は黄色と呼ばれない。リンゴと、赤いリンゴ的な毒虫も然り。もうわかってるんだ、たぶん。言葉なくても。身体に悪いものは苦い、という レベルで。

 種の保存のために自殺する動物がいるって本当なの?かの有名なレミング(ネズミ)の集団自殺…のような川への飛び込みも、実は「種にとって有利」だからじゃなくて、 結局「個体にとって有利」だからだったんだね。人間ってば、他の動物にも「理由」を押し付けようとしてんだ。やっぱ自殺(ごちゃごちゃ理由をつけて)する動物は人 間くらいしかいないんだね…というのは、やっぱり言葉遊びが過ぎたからで、同じようにせっかく俺が「ある日フッと感じた衝動(本能)」も、ことごとく ツマラン理由(言葉)によってかき消されてしまうんだから、俺はときどき叫びたくなるなあ。「世界に言葉なんていらねえ!」って。(世界に言葉なんていらねえ、 と言葉で叫ぶところがいたたまれない)

 ここまで書いてきて、やっぱり俺は「そのフッとした瞬間、それが正しいんだけど、理由(言葉)がそれを邪魔してる」って最後に言いたい。そもそもなんだよ、 「部活はやりがいがあるから辞めない」とか、「いまさら止めたら先輩に顔向けできない」とか、「本を読むことを止めたら、頭が悪くなる」とか、「大学で単位を落としたら、 卒業できなくなる」とかさー。これらのことって、全部「世の中にケータイが普及したから、結果的に仕事に追われる人が増えた」って現象で全部説明がつくよね。 カフェテリアにいても、クルマの運転中でも、友達と飲みにいっても、どこへいってもケータイのバイブが鳴り響く。それが作られた理由は、「手間がはぶけるから」 なのに、なぜか「手間が増えてる」ような気がしてならない。それは言葉を喋り始めた人間の時代から、理由の上に理由が積みかさなりすぎて、そして理由が重層的かつ樹状になりすぎて、 もはや大根底がみえなくなってしまったからなんだな。「部活はやりがいがあるから辞めない」んじゃないんだよ、きっと。

 例の「フッとくる感情」ってやつは、脳みそのやったこと(仕業)だからね。実は脳みそは、ケータイなんかいらんってことを知ってて、世の中のほとんどの人がケータイもって 機種変とかしてる間に、脳みそはフッとささやきかける。「ケータイやめとけ」「そのケータイかけてくる会社やめとけ」「つか何世紀かに考え出されたそのカンパニー という概念自体ステロ」。でも理由は強いからさ。「いや、皆いっせいに辞めれば俺だって考えるけどさあ。いま俺が会社やめたら、俺だけ給料もらえなくなって 食いっぱぐれちゃうよ。そんなの不公平じゃん」って。でも脳みそ(最も近い表現をすると本能)は、内心どっかで笑ってるんだろうなあ。「いつか自殺しろバカめ」 って。だから俺さあ、せめてケータイくらい捨てたいんだけど、やっぱり捨てられないんだわ、コレ。理由は、「学校とか家族とか友達との連絡に使う必要があるから」。

 こりゃ、救いようがねえなあー。

2006/10/5 「成人式のうた」

もう一度見えるの 不安ですものなあ。

あの時より 立派になりたいものですなあ。
時間が経てば経つほど 変化は隠蔽されてゆきますものなあ。
もう一度見えて 昔と同じようでないのは 辛いですものなあ。

できれば驚いて欲しいですなあ。
立派になったと 吃驚して欲しいものですなあ。
出来れば昔と同じように なれるといいですなあ。
きっとそうしてみせましょうよ。

これから停滞は許されませんなあ。
我慢しなくちゃ なりませんなあ。
忍耐しなくちゃ なりませんなあ。
残されたのはあと二年のみ。
その二年までに 立派になっとかなくちゃ なりませんなあ。

2006/10/8 「きれいな記憶」

 小さい頃の思い出といわれたら、みんなは自分がどのくらいの頃を思い浮かべるのか俺にはわからないが、 今大学生として生きている俺だったら、だいたい小学生くらいの頃を思い浮かべる。小学校の頃の思い出となると、 まあ穏当なところで修学旅行とか、卒業式とか、運動会とか、ちょっと変わった子だったら「日々の休み時間」とか言うのが普通なんだろうけど、 実際に「思い出は?」と言われてすぐに思い浮かべる情景というのは、人によって全然違うというのが真実なんじゃないかって気がしてならない。

 そういう風に「フッ」と昔のことに思いを馳せるとき、一見「どうでもいい風景」が頭に浮かぶのは俺だけだろうか。 なんで「あの時」の「あの瞬間」の一コマが、現在に至るまでこれほど脳裏に焼きついているのか。小学校でナントカ委員をやって いたせいで放課後遅くまでグリーンマークをシートに張る作業をさせられていて、その作業から解放される頃にはもう六時が まわってた。誰もいなくって、やけに長い渡り廊下を、やけに真っ赤な夕陽が影を落としてた冬のある日。完全に「個人的」で、誰とも 「共有」していないこんな一風景が、大学生になった今までこうも強力な記憶として残っているのはいったいどういうことか。 しかも未だ、その景色に何らの意味も見出せそうにないんだ。

 もちろん、修学旅行のような「思い出を作るためのイベント」に関連した記憶もたくさん残っているけど、思い返して本当に、 自分のルーツを感じるようなというか、プリミティブな感動をたたえた記憶ってのは、得てしてそういう個人的な情景(しかも無意味な)のなかにある気がする。 こういった個人的な記憶の累積が人の人格や個性といったものにどのような影響を与えるのかは知らないけど、どうせ一生記憶に残るのなら、 綺麗な思い出であって欲しいもんだ。しかし世の中、そう上手くいくばかりとは限らない。

 「どうしようもない」都会の騒音マンションで育った子供は、平均的に「集中力に欠ける」という研究報告があるらしい。実際にパズルやら なにやらをやらせると、普通の静かな家で育った子供と違って、「すぐに投げ出し」たり、「イライラし」たりする傾向が強いらしい。それは、 極幼い頃から「自分の力ではどうしようもできない」という状況を強いられて育っているからなんだそうだ。だから一種の無抵抗主義じゃないけど、 「あーどうせダメダメ」といった対外スタイルが身につくんだという、そういう悲しいお話デス。

 目の前に広がる世界は、いっちゃえば心の鏡だから、陰々とした心がみる世界はあまり綺麗なものじゃないと思う。もし仮にそういう世界 の一風景が、大学生になった今でもすぐに頭に浮かぶ人ってどうなんだろうと考えると、ぞっとしませんなあ、奥さん。

2006/10/19 「違和感」

 人は必ず死ぬ。だから人は、その時のことに備える。ウチのじいちゃんは昼なんかに、独りで机に向かって 作業をしていることがあるけど、実のところあれは相続に関する書類を書いているのである。家族がバラバラになる一番の原因は 経済問題である以上、その経済問題の筆頭に位置する相続のことで、後々イザコザが起こらないように責任持っている ウチのじいちゃんは本当にエラいと思う。

 しかし一方でこう思う。いわゆる「遺書」を書くという行為は、自分の死と向き合うこと、つまり「自分は死ぬ」ということを 近い将来に起こる事実として認めることなわけだけど、遺書を書いているとき、本当の意味で「自分の死」と向き合っているのだろうか、ちょっと疑問に思う。 私たち若者というのは「自分が死ぬこと」を絶対に考えないし、交通事故でも病気でも、まさか自分が?と思っているものだから、そのまさかの自分が 言うのもアレなんだけど、ウチのじいちゃんは遺書を書くという行為を、心のどこかで自分の死とは離れた事務的な作業として捉えているんじゃないかって思う。

 じいちゃんが何年か前に脳梗塞になったとき、どこか力のない笑いを顔に浮かべながら、「もってあと3年じゃ」と言ってた。その言葉の 文脈には「simが大学生になるまで」っていうニュアンスが込められていたんだけど、あの時は直感的に「この人は自分の死と向かい合っている」 という感じがした。動物的な直感のようなものだったんだけどさ。実際に体の自由がきかなくなり、前より上手く喋れなくなった自分という紛れもない事実と、脳の欠陥が破裂 してぶっ倒れるという臨死体験に基づいて、目を少し潤ませながら俺の手を握るじいちゃんは、確かにあのとき「死に向かい合って」いた。

 ただ、遺書を書くという行為はそうした覚悟とは別だってのは、なんか直感的にわかる。例えば死ぬ瞬間、病院のベッドに横たわり、ゆらゆらする天井 と家族の顔に見守られている最中に、急に長男が「ところでオレには家の土地くれるの?父さん」って言ってきたとする。いままで生きてきた思い出、 その思い出のなかには家族との思いでもあったし、結婚以前の家族が知らない自分だけの思い出もあった、そんな思い出につつまれて厳粛な気分で いよいよ死を受け入れようというときに、長男である。親父である俺としては、まったくもって「どうでもいい」話をされて非常に迷惑なわけだな。

 臨死体験の経験者の話はいままで何度か目にしたことがあるけど、基本的に死っていうのは超個人的なものだ。あるガン患者が、「自分が死 ぬのと同時に、世界が滅びればいいのに」と言ったいう妙に共感できる笑い話があるように、いくら自分のいままでの大切な人との思い出や経験、その他の感傷的 な情動を総動員しても、世界は表面上は自分の死を哀れんでくれこそすれ、そこには世界との訣別、自我との訣別という無常な必然があって、意識しようが意識 しまいが、生物として本能的にその事実を知っている私たちは、死の瞬間、現実的な全てのウザッタいこと、自分を自分ならしめている他者の意識のなか に存在する自分のことなどのことを意識から排除して、ただひたすら自分の思う自分を志向するようになるみたいだ。

 わかりやすく言えばどういうことかというと、さくらももこさんだったかな…彼女が帝王切開をしたときの話が、俺にはすごく印象的なんだけど、ちょっと紹介したい。 ――「そうですね。脳のシステムが止まってくるな、というのを感じて…止まっているなっていう感じがあって、感覚的にはすっごく生々しいプライベート な感じだったんですよ。自分の、何かすっごく根源的なところに行く感じ。本当にこの世にあることってみんな、自分の根源的な存在とは関わりがないんだなあ って感じて、本来の自分は今、現実とは関係ないんだなってすごくわかった気がした。肉体はもちろん、自分の性格とか今までやってきたこととか、 親とか今から生まれてくる子供とかまで、すごく無関係な気がした」。――彼女のこの言葉が全てを語ってると思う。つまり、あの哀れなお父さんにとっては、 息子の戯言に腹を立てたり、はたまた悲しんだりするまでもなく、個人的な死の世界に没入できたってワケだ。

 人は猫をかぶる。寄生獣という漫画のなかで、ある人物が夢で「友達がみている自分の姿を、友達の目を以ってみる」という場面があるのだけど、 作中その人物は、友達の目からみた自分の姿に驚くところが笑える。でも、自己意識というものは常に他者の意識のなかにある自分に触発されて成立している 側面があるのだからしょうがない。つまり、友達の前にいる自分、お母さんの前にいる自分、弟の前にいる自分といったように、人が人と向き合ったときに、 その人の数だけの自分を作り出すのが人間の性なワケだけど、そんな幾多の自分に囲まれて生活していて、どこまでが自分でどこまでが自分でないと、キッパリ 峻別できる人なんていないってことだ。例えば、「好きでもない彼氏と付き合っている私は本当の私じゃない」なんて言うけれど、一方で、「そんな自分もまた 本当の自分なんだ」って気もしてくる。したがって、人はどこまでの自分を本当の自分にするかについて、非常にあくせくした存在だということが言えるだろう。

 本当の自分探しっていう言葉が昔はやったことがあったけど、自分というのは、今その場で漠然と感じる自分という存在のほかに、他者の意識によって 生まれた自分というもう一種類の自分がいる。後者の自分には好き嫌いがあって、例えば「息子の前に立っている母としての私」を愛しいと感じたり、「夫の前 に立っている妻としての私」には納得がいかなかったり、「制服姿のサユリの前にたっている同僚としての私」には違和感を感じていて、「親友のエリの前に立 っている幼馴染としての私」にはとても親しみを感じていたりするわけだけど、結局のところ他者を前にしたときの感情というのは、その他者がイメージしている 自分の姿が、自分にとって好ましいかそうでないかっていうのがかなり絡んでくるような気がするな。だから、「私はあのヒトが嫌いです」ということは、 実は「私はあのヒトが勝手にイメージしている私の姿が嫌いです」っていう側面も持ってるんじゃないか。だとすれば、嫌いなヒトと付き合っていて、 「私は何をやってるんだろう」と自分がイヤになるのは、やっぱり「勝手にイメージされた自分を偽ること」に疲れているからだと思う。そして、私 はその「自分」を「自分」から切り離すんだ。

 もしこの考えに一抹の真理があるとするならば、死に際で感じる「この世にあることってみんな、自分の根源的な存在とは関わりがないんだなあ」という 感覚は、死に際に感じる本源的な生理が、他者のなかにいる自分(「他者を意識している」自分といったらいいのかな)、いいかえれば他者の存在を反映しての 自分を、本当の自分として認めていないということを裏付けているんじゃないだろうか。もしこの仮説が正しいとすれば、ヒトとヒトとのつながりというのは、 死に際して、他者のなかにいる自分を本当の自分として認めることができたときに、はじめて永久になる(死によって完結するという意味で)んじゃないかっ てことが言える。母の期待(する自分)に応える、父の期待(する自分)に応える、兄弟の期待(する自分)に応える、親友の期待(する自分)に応える、 恋人の期待(する自分)に応える…というのは理想と違って実に難しいものだ。やはり多くの人は、そうした自分を心の底から自分であると思いながら死ぬことは できないようだ。もっとも、人は生きている間によくヒトの期待に応えようと頑張っている存在だと思う。せめて死ぬ時くらい、本当に本当の自分として、 自分だけの世界で安らかに死んでもいいと思うのですが、はてさて皆さんはどう思われるでしょうか、ははははは。

2006/11/19 「不安」

 高校生の頃だったか、中学生の頃だったか、今となっては昔のことだが、精神と肉体のことについて、ひたすら考え続けていた 時期があった。実際に、自分にとって肉体の使用量を最低限まで落として、あとは本を読んだり、思索に耽ったりという精神活動に、生活 の殆どのエネルギーを注ぎ込んでいたのも覚えている。丁度その頃だったろうか、部活を意味なく止めたのは。その結果、得た結論というのは、 誰もが何となく想像のつくように、「精神だけではダメだ」、という至極当然なものだった。

 ただ、「なぜ精神だけではダメなのか」、という問に答えるためには、やはり経験的事実に基づくことによってしかない だろう。なぜ精神だけではダメか?それは、精神を支える肉体が、精神をダメにしてしまうからで、ここで私は精神を、文字通りの「精神」と「肉体的精神」 の二種類に、便宜的に分けてみようと思う。前者の精神は、知的好奇心に基づく知的活動のことであって、これは肉体を動かす原動力ともなる ものである。後者の「肉体的精神」とは、痛みや快楽といった、肉体から精神に作用する官能のことであって、「肉体的精神」は「精神」に作用し、 「精神」は肉体に働きかける。そして肉体が受ける官能は「肉体的精神」に作用し…という風に、「環」の構造をとっているように想像すると分かりやすいのではないかと思う。

 精神を支える肉体が精神をダメにしてしまうとは、要するに、それだけ「精神」は「肉体的精神」に弱いということが言いたいわけだ。 例えば、高校の国語便覧に白黒写真で載っている、戦前の小説家のように、いかにも精神活動に特化したような、脆弱そうな肉体を自分が まとっていることを想像してみればわかるように、私は実際に、若さゆえに活動を欲する自らの肉体を、苛めに近い激しさで「何もさせず」、ただひたすら 食を欲しいままにし、太らせ、醜く使い物にならない状態にもってゆこうとする傍らで、ただひたすら、自らの内面に埋没するかのように精神活動 に耽ったが、そのような異常な状態を続けてゆく過程で、自分はだんだんと精神が病んでゆくのを感じたのである。

 分かりやすく言えば、そのような自分に自信がもてなくなってくるのである。醜く太って、油の塊のようになった自分。何もさせてもらえない故に、やせ細って張力の ない腕。これは、主観の問題である。実際は、ちゃんと休まずに学校に通い、表面上はいつもと変わることなく、友達と笑ってすごす日々があるわけで、 そんな日々の中で私が直接に、私の醜い外観について指摘されたわけではなかったが、自分は自分で自分の肉体を苛めているという自己意識だけで、確実に 私の精神状態はドス黒いものとなっていった。そしてある日を境に、私は精神の限界をむかえる。その日から、堰をきったようにして、物凄い勢いで体を 動かすようになったのである。

 長らく使わなかった肺から漂う血の匂い、今にも破裂しそうな心臓、咽頭にたまって呼吸を邪魔する体液。そんなものすら、私には嬉しかった。肌に感じる風、 汗で冷える首筋、軋る筋肉、全てが新鮮で、目の前に広がる風景も、なんだかいままで見たことのないようであったが、何より私が驚いたのは、己の精神が、 かつてないほどに鋭敏に研ぎ澄まされているという実感だった。その日、私は家に帰って、今まで通り、陰惨な精神活動に従事してみたのだが、そこでまた 新たな驚きがあった。精神の昂揚感、活動を支える動機、思考力、それら全てが、あの狂ったような肉体活動の後に、凄まじい飛躍を遂げていることを知る のである。ここに、私はひとつの確信を得るに至る。

 「精神を支えるのは、肉体である」

 これは単純なことのように思えるが、なかなかその確信を経験によって得ることは難しいために、実行するのは容易ではないことだと思う。「嫌な ことは先にやってしまうといい」とか、そういうのに似ている。普遍的すぎて、かえってその素晴らしさを確信できないでいる。私は、高校時代か中学時代だったかに、こうしたバカなことを実際に身をもって経験したから、 確信をもって、そのことを実行することができるのは、大学受験期に、毎日一度たりとも夜のランニングを欠かしたことがないことからも言えることだ。

 しかし大学になって、最近新たに疑問に思うことがでてきた。大学に入ってから、どうも部活ばかりに一日の大半のエネルギーを費やす毎日で、近頃は 本当に、精神世界に没入することが少なくなっていて、どうも自分はバカになっているんじゃないか、と思うことがよくあるのである。これは冗談で言っている のではなくて、本当に、バカになっているような気がするのである。感覚的に言うならば、自分の存在というか実像のようなものが、だんだんと薄くなって きているような気がして、たまらなく不安なのだ。これもあえて言っておくが、主観の問題である。

 だから私は最近、かつて自分がやったことと逆のこと、すなわち、「肉体は精神によって支えられているか」を検証してみる必要があると思っている。 これは仮説の域をでないが、おそらく直接的に精神の脆弱さが肉体に及ぼす影響はないだろうと考える。しかし、精神の脆弱は精神に影響を与えることは確実 である。精神は肉体に影響を与える、というのは、要は表現の問題であり、肉体が直接に精神に影響を与えるのではなく、「肉体的精神」を媒介して、少しずつ 精神をダメにしてゆくのと同じように、精神は肉体に、何か「精神的肉体」のようなものを通じ、影響を与えるのではないだろうか。

 精神的肉体とは何か?それは生殖器である、というのは冗談として、私が最近特に悩まされることの多くなった、この漠然とした「自分はバカになっている んじゃないか」という不安感こそが、「精神的肉体」の正体であると仮定しておくことにする。具体的なイメージとしては、精神的官能が肉体に伝えるメッセージ、例えば、 悲しみから落ちる涙、ふとした瞬間に理由なくおそってくるあの身震い、大切な人を擁いた時のあたたかい感じ、緊張が伝える汗、怒りで逆立つ前身の体毛、その ようなものを思い浮かべてもらえれば、感覚的に諒解してもらえそうである。芥川を殺した「漠然とした不安」も、もしかすると、いまの私と同じ不安なのかも しれないが、それはどうなのかわからない。

 私を今、苦しめているこの不安感は、最近確実に、私をある行動へと駆り立てようとしているように思える。それは、首周りを爪で掻き毟るという 単純な行為であるような気もするし、無性に実家に帰りたくなる衝動なのかもしれないし、自分の身の回りにある大切なものの一つを、めちゃくちゃにぶっ壊して やりたい狂気でもあるような気がする。わからない。それがわからないから、不安だ。そんな不安に対する対処法は、私が昔から自分に言い聞かせている ことを実践することでしかない。「とりあえず、行動してみるんだ」。私は、思いつくこと全てを、何の計算もなく、ただやってみるだけである。失うものも大きいが、 大切なもの、もしそれが大きなものを失ってまで得る価値のないような小さなものでも、少なくとも自分にとって大切だと思えるものならば、それを手に入れるために、 私はどんな辛いことだって、やってみせる覚悟があるんだから。

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