2006/7/20
「新郎新婦入場」とか「主賓祝辞」とか「大学時代の友人による馴れ初め紹介」とか 「指輪交換」とか「各テーブルを回っての記念撮影」とか「新郎新婦中座」とか「新郎新婦再入場」 とか「新郎新婦のビデオアルバム」とか「キャンドルリレー」とか「新郎新婦協力してのケーキ入刀」 とか「新郎新婦プロフィール紹介および突撃ゲストスピーチ」とか「両親への手紙朗読」とか 「両親への花束・記念品贈呈」とか「新郎新婦退場」とかあるけどさあ。何だって「結婚式」って 「何か恥ずかしい」んだ?なんでだ、本人たちは幸福の絶頂にあるというのに。冷静になるとすげえ恥ずかしい。 「ありきたりな結婚式なんてイヤ!」って言うのもいいけれど、奇抜すぎるのもあれだよな。なんだその「プログラ ムひとつで結婚式はこんなに垢抜ける!斬新なプログラムで作る素敵結婚式」とかいうのは?「新郎新婦がゴンドラ に乗って降りてくる!」とか「山奥のペンションで少人数結婚式!」とか?「披露宴余興を芸能人が盛り上げます! 結婚式演出決定版!」に至っては、芸能人といっても「エスパー伊藤」とか「松本等しい」とかだろ?やめろって。 その「頑張ってはいるけどいっぱいいっぱい感」がたまらなく苦しいんだ。
ケーキの入刀とかヤバいよな?というかなんであんなにタワーなんだ。あのタワーっぷりがまた恥ずかしさを 刺激するというか、「無理矢理ハイソックスを履かされた感」っていうかさ。「買ったズボンが想像以上にピチピチだった感」 ともいえるかもしれないが、なんでああいうことをしちゃうのかなあ。「披露宴で人気のBGMベスト10!」なんかもさ、 なんか「BGM」っていうのが恥ずかしいんだよね。だってBGMってback ground musicって意味だぜ?「結婚行進曲」とかは 定番なんだろうけど、「世界に一つだけの花」とか「さくらんぼ」とか「ペコリナイト」とか「美女と野獣」とかどうなん? 急にそんな音楽流れてきたら脇汗がタダじゃすまんだろうし、第一入場の時にどんな顔をして入ればいいんだ?すっごい笑っ てればいいのかな。でもそれじゃあ無理に笑おうとしているプーチン大統領みたいに顔が引きつりそうだし、逆にスカした顔 して入るってのもいいけど、ライトでポップなBGMとのシナジーで爆笑されたら誰が責任とってくれるんだ?多くの人は「結婚式 って大切な一生モノの行事」って感じてるはずなのに、いざ自分達が「結婚式やるぞ」ってなったら、普段なら見えるはずのもの が見えなくなるというのはどういうことなんだろう。結婚式というのはまさに亜空間だと言わざるを得ない。
ある程度の年がいったら真剣に考えるようになるんだろうか、果して。「西洋式にする?和式にする?」「ダッサーイ、最近は コジンマリとして堅苦しくないのが流行ってるんだよ」とか。なんだよ「最近は」って。それは「結婚式には定型がない」ってこと を意味しているわけだよな。なんかその「最近の結婚式は」って辺りにコントっぽいニオイを感じてしまうんだよな。お笑いは水物 だけど、実は結婚式も水物なんじゃないのって感じなんだよ。ああ、それで分かったぞ!「何か恥ずかしい感じ」の理由が! 例えて言えば「シブがき隊が三人揃ってローラーブレード履いてる画像を見せられて素直に恥ずかしいと思う感情」に似ているんだ。 急に「アンノン族が現れた」ようなというか、「サタデーナイトフィーバーがヒットしてディスコスタイルが流行した」感じというか、 「ホワイトキックでチョベリバ」というか、とにかく「今の幸せが過去の恥部にされてフタをされてしまう予感」を掻き立てるんだ。それが俺の「何か恥ずかしい」気持ち の理由だったんだ。誰か、誰か「恥ずかしくならない」ような結婚観を俺に語ってくださいませ。

ヘアースタイル、腰のひねり、笑顔、コスチューム!その全てが恥ずかしいぜ!
2006/7/30
何故人は酒を飲むんだろうか?酒というものの真の美味を追求してのことなのか、はたまた 酒を飲んで酔っ払いがためのことなのか。確かに世の中には本当の意味で酒の持つすばらしさを賞玩 したくて酒を求める人もいるだろうが、特に日本人の酒の飲み方というのは、感情の箍(たが)を破壊 することを欲して已まないように思える。というのは、人は他者と接する時少なからず理性という名の 壁で身を守りつつ相対する。もっとも理性は人にとって筋肉よりも重要な防御機関であることは間違いなく、 その理性の壁を全てぶち壊してしまう酒は、時として犯罪に使われてしまうことがしばしばある。だが、 酒を飲んで理性の働きを弱めてしまうということは、云いかえれば相手に弱みを見せるということでもあって、 人はそんな「自分に弱みを見せてくれている相手」に警戒感を解き、同時に自分が信頼されていると感じるし、 逆もまた然りであると云える。親密さを築く過程は得てしてこういうものである。俺の持論の中に「喧嘩をし ない相手とは親友にはなれない」というものがあるが、人が人と昵懇の間柄になるためには、自分がどこまで 相手に許されるかの限界を知らなければならず、もしその限界点を知らなければ、表面上はどうあれ人はお互 いに猜疑を持ったまま深層心理では少しずつストレスを感じ続ける。また「喧嘩をしない相手とは親友になれ ない」という言葉を裏付けるひとつの根拠として、喧嘩の後には「仲直り」という儀式があることを指摘したい。 人は喧嘩から仲直りへという過程を経ることによって、私達は意見の衝突をしても大丈夫だという安心感を得る ことができる。つまり喧嘩をしたことのない人間との関係は「黒髭危機一髪ゲーム」のようなものであり、常に 「どこを刺したらバクハツするのだろう」という準戦時状態であることに加え、そのことによって二度と修復不可能 になるのではないかという漠然な不安に囚われ続けると云わざるを得ないというわけだ。
大人になると親友が作りにくくなるというのは、要するに喧嘩ができないためである。大人の喧嘩は 金銭や地位などの利害が絡むことが多く、うっかり樽に剣を刺したらジ・エンドになることがしばしばある。 よって大人同士が心の底からの信頼関係を築くための機会は社会的に制限されてしまっていると云ってよい。 そこで喧嘩を疑似体験する手段として大人が考え出したのがお酒の席である。まず酒の席で行うことはチャラ であるというルールを設けた上で、各人が各人に酒を飲ませ合う。じきに酒の持つアルコールは脳幹の網様態を侵し、 続いて大脳新皮質にまで浸潤、かくして理性の持つ抑制機能は麻痺させられてしまうわけだが、理性を司る大脳新皮 質の機能が低下し、さらにその調整を行っている脳幹がやられてしまうと、人は「太古の脳」である大脳辺縁系を起動させる。 大脳辺縁系は云いかえれば「本能の脳」であり、ヘロヘロになった脳幹は活動機能を大脳新皮質から大脳辺縁系へと切り替える。 すると「嗚呼、ゲロりてえ」とか「嗚呼、コイツ殴りてえ」とか「嗚呼、人肌が恋しい」とか「嗚呼、笑いてえ」とかいった具合に、 人はより本能レベルに近い行動をとるようになり、今まで理性によって抑圧されていた原始の声(倭人の声)を叫ぶように なるのだ。このようにして理性が弱まった人と人の間では、より本音トークが繰り広げられることになる。しかも「酒の席 ではチャラ」のルールが常に影響しているから、酒の席で行われたことは本音から出たことなのか、嘘から出たことなのかも 混沌のうちに黙殺されてしまい、ただ次の日には何事も無かったかのように理性を身につけてお互いに顔を合わせるという ことになるが、そこには喧嘩を終えて仲直りをしたような爽快感と親密さが微かに残っている。
このように酒には一度に二度美味しい効果があるから、人は酒を飲むんだ思う。それとこれは余談になるが、 酒は理性を麻痺させる働きがあるというからには、理性によって抑圧されていたものが存在するのは当然である。 そうなると理性によって抑圧されていたものが意味するものとは何かということになるはずだ。ここで俺は「理性に よって抑圧されていたもの」はその人の「本当の気持ち」を意味するのかということを考えて欲しいと思うのだが、 実際にはどうなのだろうか。また「普段から理性によって抑圧されている人ほど酒の席では変化が大きく、あまり抑圧され てない人ほど普段とあまり変化がみられない」ということを以前聞いたことがあるが、では「抑圧されていない人」と は理性の弱い人だということになるのだろうか。俺はそうではないと思う。なぜなら抑圧されているように見えようが抑圧 されてないように見えようが、人間に脳幹と大脳新皮質がある限り、理性的に行動せざるを得ないからである。例えば 俺が肉切り包丁をもって近所の小学校の生徒を50人ばかり殺害しに行ったとして、いかにその行動が非理性的だからと いって、俺の脳幹と大脳新皮質が麻痺していたことの根拠とはなり得ない。また大脳新皮質が発達していない野性の動物が、 お互いを見て気に入ったらすぐに交尾するのと違って、人間には防衛機制のような複雑な精神作用がある。好きな女の子 の前では逆に突っ張ってしまう男の子や、罪の意識から自殺をしてしまう殺人犯まで、理性は時として生物としての人間 に不利に作用する。カレー味のウンコとウンコ味のカレーという究極の選択問題を耳にしたことがある人は多いだろうが、 それでも衛生面を考えてウンコ味のカレーを選んでしまう人は、実に理性的な人間であると云わざるを得ない。しかし人は カレー味のウンコを食べてしまうこともある。では後者の人は理性的ではないということになるのか、実はそうではない。 カレー味のウンコを食べることもまた、理性的な判断に基づいていると云うべきである。なぜなら例えカレーであっても、 ウンコ味のものを食べられるはずがないが、いくらウンコであると云えども、カレー味がするなら食べられないことはない。 これは立派な理性的な判断であり、世間では異常と評される犯罪でも異常と呼ばれる恋愛でも、これと同じく外見的に倒錯 した形で現実世界に現れる可能性は否定できない。犯罪は本能が起こすのではなく理性が起こすのであるとは、理性の判断 が危険であることを説明する警句だ。
よって俺は「理性によって抑圧されていたもの」はその人の「本当の気持ち」を意味するかということについて、 それは「意味するのかもしれないし、意味しないのかもしれない」という答えを出したいと思う。つまりカレー味のウンコ かウンコ味のカレーかという問題において、本能はカレー味のウンコを欲したとしても、それは真の意味でその人がカレー 味のウンコを欲していたとは云えないからである。所詮ウンコ味のカレーを選択するのは理性の産物であって、お前の身体 はカレー味のウンコを欲しているじゃないかと云われたとしても、俺は理性が選択した内容が「本当の気持ち」でないと断言 できるだけの明確な根拠はないと思っている。例えば美人の観念にしたってそうだが、平安時代は下膨れのふくよかな女性が 美人だと云われたが、美人の基準は理性によって決まる。西洋文化のなかでも取り分けハリウッド映画によって輸入された スタイルの良いアメリカ人女性像は、日本人の今までの美人感を大きく変えた。またプラセボ(偽薬)のように、薬理効果の ない鼻くそを患者さんに飲ませても、これは本当に効くんですよとか云っていれば本当に患者さんの調子が良くなってしまう のも理性の働きだ。理性は時によって本能を超える効果を持っており、心臓がバクバク動くことや腸の蠕動運動は理性の働き ではないと云うが、プラセボによって内蔵機能に変化が起こるという厳然たる事実がある。だから俺は「上戸彩は理性の働きに よって美人に見えるだけで、本当は酷いブサイクなんだぜ」とは云えないと思う。よって酒の席で普段温厚な先輩が怒り狂って 周囲を毒づきまくったとか、普段は穏やかな先生が下ネタトークを始めたからと云って、それがその人の「本当の気持ち」を 表現しているとは云い切れない。つまり酒を飲むことによって生じる「第二の顔」は必ずしもその人の「本当の顔」を表してい るわけではなく、それはあくまで「理性によって抑圧されていたもの」が表出しただけの話であって、要するに「理性」をどう捉えるかと いうのが問題なのである。
2006/8/16
母親と一緒にパチンコに行ったら、70000円も勝ってしまった。もともと畑仕事を手伝った対価 として祖母から10000円を貰って、その半額の5000円をもって挑んだ勝負だったわけだが、まさか10日分 のバイト代に匹敵する勝利に結びつくとは想像がつかなかった。まあ汗水たらして稼いだお金ではないので、 後になってみると別に「あっ、もうけた」くらいにしか思わないのだけど、これで今週に控えた高校時代の友 人との会合費用が浮いたことは素直に嬉しい今日この頃です。みなさん、本当にお久しぶりです。
しかしパチンコ店に来る客というのは予想外にジジババ連中が多いのには驚いた。固定観念として、 いままで俺はパチンコ店に来る客=しょうもないギャンブラーのイメージがたえなかったのだけど、実際には老人の溜まり場 みたいになっていたのだ。しかも毎朝公園でゲートボールをしているような健康的な老人とは違って、どこか 表情に陰がさしているというか、まあもともと顔のシワで陰がさしてるだろっていうのはあるんだけど、暗い。 例えて云うならば、普段の生活に満足できてないというか、社会生活のどこかに不満を感じていて、そこから 生じたストレスで動いている人形って感じだ。
パチンコ台ってよく磨かれているから、ディスプレイがピカピカ光るんだけど、連チャンが景気よく ワーッときてる俺の後ろで、よぼよぼのお爺ちゃんが恨めしそうな顔して俺の後ろに立って、フィーバーしてる 俺の台をジーッと睥睨してるのが反射で見えるんだよな。思わず麦茶噴いた。ちょっと離れたところの台で負けまくってる オバちゃんからも、なんか視線を感じるし、ヒステリーみたいに台を叩いてるヤツなんかもいた。チンジャラ出ている人は 別にして、本当に何箱もスリまくってる老人の哀切っていうのは筆舌に尽くしがたいものがありますわ。しかも俺より何十年も 人生経験のある人たちにかこまれて、だよ?かくて勝つことっていうのは、他人を犠牲に する行為なんだなっていうことを、まさかあんな場所で認識することになるとは、夢にも思いませんでした。
なぜ老人はパチンコに行くのか。実は俺の祖父もパチンコが大好きなんだけど、今は年金受給者である祖父の 前身は立派な地方公務員だったんだ。この事実はモロの俺の固定観念を打ち破ってくれるんだけど、なぜそうした人がパチンコ などという理不尽な遊戯に手をだしてしまうのか。特に家庭に問題はない。俺もよく畑仕事を手伝うし、強烈なキャラを 誇る祖母がいつも家族に話のネタを提供してくれるので、喧嘩をするときは台風19号のように家のなかがメチャクチャになるけど、 基本的に我が家はみんなよく笑う「暖家族(あったかぞく)」だ。つまり家庭の不遇が問題ではなくって、祖父の場合は 単にパチが趣味だったって話なんだな。因みに祖母は非常に強剛なギャンブラーだし、俺の母も5000円以上は突っ込まない 堅実なパチンカーであり、今年に入ってから400000円も勝っている。そんななかで、祖父だけが本当にダメダメのパチンカー だというのは、我が家は女連中のパワーが強いことを象徴しているようでなんだか悲しいが、まぎれもない事実である。祖父自身も、 パチンコをせんかったら家が建っとるわ、と笑って語っていたように、本当に祖父はパチンコで金を無駄にしすぎです。
でも、普通の人だったら一日に何万円も負けるばかりしていていたら、少なくとも一度くらいは「もう止めだ」って 思うはずですよね。実は祖父の友達にはイーちゃんという人がいて、この人と祖父はよくいっしょにパチンコしに行くんだけど、 イーちゃんは祖父よりもパチンコが弱いんです。人間は自らが掘っ立て小屋に住んでいるのに隣人が文化住宅に住んでいたら 生きるのが本当に辛くなるけれど、その反対側に竪穴式住居で寝起きしている隣人がいれば、実に幸福に生きることができる ように、つまり祖父はイーちゃんの存在のお陰で「自分はまだマシだ」という安心感を得ている、よって負け続けてもワリと 平気な顔で毎日を過ごしているのかもしれません。パチンコにおいては、もっぱら個人とパチンコ台との一騎打ちという個人戦 のイメージが強くて、非合法な賭けマージャンのように、誰かが勝って得をして、その一方で誰かが負けて損をするという構図は 非常に見えにくいのですが、実はそういうシチュエーションはこうした間接的な形で現れもするのです。例えば俺が座った台は 700回転していた台だったのですが、要するにそれまで700回転させた分の人の思いというか怨念のようなものが蓄積しているわけです。 だから、俺がその台に座って、ほんの2000円分くらい回しただけで「リーチ!」となった段階で、もしその場にその台で損をした人 がいたとすれば、この俺は殺してやりたいほど憎たらしい「簒奪者」になるわけで、心のなかでは「たのむ!外せ!」という怨嗟の声でいっぱい だという。これはパチンコ経験の長い人なら容易に共感できることだと思います。俺はその「敗者の心理」を母から学びました。
パチンコっていうのはギャンブルだって云われて蔑まれるけど、資本主義自体も結構ギャンブルなんだよな。新しく会社を作 ろうと思ってかき集める資本も、ある種成功するかどうかわからないギャンブルの資金だ。金っていうのは無くならないもんだから、 自分の損失は結局は誰かの利益になってるし、そういう理由で誰かの成功は腹が立つ。自分の失敗を糧にされてるような気がする。 つまり誰かに自分の台をとられちゃうような感じってことだな。そのへんがパチンコ感覚っぽい。しかもパチンコにはれっきとしたパチンコ 店の経営者というものがあって、個別具体的にみると損する人や得する人を出すようになってるけど、全体でみれば必ずパチンコ店が得 をするようになってる。誰かがパチンコ店に足を踏み入れる限り、パチンコ店は絶対に得をするようになってるんだな。だから行くのを やめようと云っても、損をした人は負けた分を取り返すために、いくらでもパチンコ店に足を運ぶ。資本主義においても「資本の再分配」 という名目で政府によって税金がとられちゃうわけだけど、その金は特定の銀行を維持するために使われちゃったり、一方では国の補助や 当の銀行の融資を受けられなくてバタバタと死んで行く中小企業があったりする。この場合、負けた人は政府に何度足を運んでも、なかなか負け組は保護されないって 点が特にパチンコっぽい。ただしパチンコ業者は警察利権と絡んでいたり、マスコミの大口スポンサーになっていたり、政治家に献金をしている っていう点で、資本主義っぽくないんだな。しかも経営者に在日が多く、なぜか免税されるわ北朝鮮へ勝手に送金をするわというあたり、 パチンコ店経営者を政府に例えようとしても例えようがありませんな。あっ、売国議員てのがいたっけ。
ここまででちょっと話が飛びすぎた感がありますが、要するにパチンコは(・A・)イクナイ!ってことなんだな。 お前、自分だけ勝っといてそりゃないだろ、と言われそうなニオイがプンプンするのはひとまず置いておくとして、 やっぱりギャンブルはギャンブルらしいのがいいです。パチンコなんて「台の設定」によって出るようにも出ないように も自由にできるんだから、競馬のようなスカッとした分かり易さはありません。それに東京の石原知事が東京都にギャンブルを どうのこうのって話になったとき、いや日本には既にパチンコというギャンブルがあるじゃないかってツッコみたくなった 人がいるかもしれませんが、実はパチンコ業者はパチンコのことを遊戯であると言い張って、現実にそれがまかり通ってるんですな。 なんでなの?と疑問に思う人は、前段の文章をもう一回読んでちょ。ちょっと驚きかもしれないけど、日本におけるパチンコ業界 全体の市場規模は2004年のデータでほぼ30兆円ですから、わが国の基幹産業である自動車業界を余裕で凌いでいるってことになりますな。 最後に怖いお話を紹介してお終いだ。
特に「依存キーワード」は優れた論説なので、HOMEのほうも是非見てやってちょ。
2006/8/21
畦道を歩くと落ち着きます。人が居ないから。人出のなかに入ると落ち着きません。自分の存在が希薄になるから。 自分を絵の具に例えてみます。貴方は何色ですか。私は薄い鈍色です。将来は青になりたいと思ってます。濃い青。 底知れない深海の蒼になりたいのです。人出のなかに混じっても、私が私であり続けることができるように。
だから、鍛錬します。鍛錬は辛いけど、それを乗り越えないともっと辛くなるから。
かくて胸を張ってみんなの前にでていくんです。自分の色で。これが俺だと。誰とも違う、俺なんだって。 そして素敵な人、みつけます。佳良な色をもった素敵な人を。
大きな塊から染み出た、一滴の水になりました。18歳になって、なりました。塊のなかにいた安心はもうないです。 背後というものができました。四方に眼を光らせます。心中不安です。でも不思議な高揚感があります。世の中いろんなところ に塊があるので、どこに行こうか迷います。水は乾き易いですから。急いで。でも、焦らないで管崔。
消えるから、才能消えるから。あの、幼さ、才能。あ。揺れる葉っぱ。微風。夕陽。橙。レンガ。窓枠。反射。 幻影。ガタガタ。チャイム。涙。黒。バッグ。運動靴。ゲタ箱。自動販売機。10円。汗の匂い。髪の毛。消える、消える、 やば、消える。消える消える消える消える消える消える消える消滅消滅消滅消滅嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。才能、枯渇。 戻れない。振り返ってはならない。担任。先生。声。体育。血。鉄。本。雨。濡れた紙。絵の具。木の板。バトン。笛。 拡声器。杭。手を繋いだ思い出、思い出、消える消える消える消える嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。枯渇枯渇枯渇枯渇。 思い出過去消える通り過ぎる才能枯渇橙橙夕焼け思い出過去帰り道教科書シャーペン川橋思い出会話友達。消えます。 一部として。一部、身体。一部。消える。戻れない。過去。過去過去過去過去。かこーかこー。かこ。かこかこ。かかか ここことしてかことしてかことし。
未来創ります。未来は現在になって→過去になります。消えます。私、おじいさんになります。嫌です。嫌です。 重さに耐えられそうにありません、過去。重さがどんどん増えてきました。足が、骨が、キシキシいってる。もう駄目。 まだいける?否。否。いける。できる。だめ。できる。だめ。不安。だめ。できる。いける。だめ。わからん。わからん。 わからーん。わからん。でもどうせできるんだって心の何処かで分かってる。私、死ぬ勇気ないから。握ったナイフは落とすから。 醜悪になって生きます。いつまでも未来だけを見て生きられる。フリでいい。手にする貴さ。出来ぬ尊さ。今を見て往く鑿。