自民党について
その性格
日本国憲法第615条には「行政権は内閣に属する」とあるが、自民党においては自民党政務調査会が実権を握っている。自民党内では、政府が予算案や法案を国会に提出する時には、必ず政務調査会や総務会の了承が必要だからである。通称「事前調査」。この事前調査制度には田中角栄が関わっていたとされ、自民党政調会は族議員の温床となるのである。2002年の小泉政権下で、塩崎恭久は「内閣は国会に案件を提出する際、党の事前承認を条件とせず、副大臣・政務官が党の政務調査会の役職を兼務する」との改革案をまとめたが、小泉首相は「改革を進めるには党内で多数はをつくらなければならない」として族議員に配慮した結果、4ヵ月後にまとめられた改革案には「事前審査の廃止」がすっぽりと抜け落ちていた。
2003年の総選挙における自民党の当選者237人のうち、地盤を引き継いだ2世議員は95人で、民主党は22人。自民党で地盤を引き継がなかった者は12人で、民主党は14人である。世襲によっては、幅広い人材が集められないのである。
1958年から1960年にかけて、自民党は米CIAから「反共」を売り物にして総額数100万ドルの資金提供を受けていた。
基本理念
自民党は政権維持を第一に考えるので、理念や政策に関しては融通無碍である。
憲法改正では、中曽根康弘の憲法改正論と、宮沢喜一の護憲論が対立した。中曽根は安保なくして成立しない憲法九条が、陸海空軍を保持しないと定めた2項に矛盾すると解いたが、宮沢は九条がなくなって困ることはないと主張した。
対公明党
2004年の参議院選挙では年金改革が最大の焦点となった。与党は自民・公明の連立であったが、自民党は給付水準を現役世代の平均的な所得の50%を確保するという「大きな政府」志向を打ち出し、これはあきらかに公明党の福祉路線に影響されている。これに対して民主党は、年金制度を一元化して基礎年金は税金でまかない、二階部分(厚生年金)は被保険者の負担に応じて給付を受けるというスウェーデン方式に近い改革案を打ち出したが、官僚や財界人は、民主党案のほうが自民党案より優れていると評価した。
汚職
自民党結党直前の1954年に、当時の自民党幹事長の佐藤栄作が造船疑獄事件で逮捕請求されるが、法相犬養健は首相の吉田茂の意向を受けて指揮権発動による逮捕阻止を行った。
1976年には「戦後最大の疑獄事件」と呼ばれたロッキード事件が起こる。
リクルート事件は、竹下、安倍、宮沢、中曽根の関与があり、自民の藤波、公明の池田が在宅起訴され、各界から多くの逮捕者がでる。竹下はロッキード事件の教訓として「政治献金は薄く広く」と考えていたが、派閥拡大の維持費の必要にせまられて事件に手を出し命脈が絶たれた。
金丸信の佐川急便・ゼネコン事件は、金丸の個人の不正蓄財の側面が強く、自民党の腐敗はここに極まっていた。
1996年、村上正邦がKSD中小企業経営者福祉事業団が有利になるような発言を国会で質問し、7000万円を受け取った。
2003年、労相などを務めた山口敏夫が信用組合から19億円の回収見込みのない資金貸付を画策し背任に問われたほか、業務上横領が認定される。同年、建設相などを努めた中村喜四郎はゼネコンの談合事件で告発しないよう公正取引委員会に働きかけて欲しいと求められて現金1000万円を受け取った。同年、建設相経験者の中尾栄一もゼネコンからの6000万円受託収賄で東京高裁に実刑判決を受ける。
2004年、自民党橋本派が、日本歯科医師連盟から1億円の不正献金を受ける。
政治資金の方法
1958年から1960年にかけて、自民党は米CIAから「反共」を売り物にして総額数100万ドルの資金提供を受けていた。
90代半ばの政治改革で、政治献金の公開基準は100万円超から5万円超に引き下げられた。これによって、例えば50万円の献金を行っていた企業は名前が公開されて、他の政治家からも献金が求められるようになってしまう。そこで企業は5万円以下の献金しかできなくなるのである。なぜなら他の政治家からの献金の要請を無視して、従来どおり50万円の献金を続けるのはリスクを伴うためである。自民党は細る資金力を危惧して、2003年に公開基準を24万円超に引き上げる政治資金法改正案を国会に提出するが、野党の強い反対で否決された。
2003年に総務省が公表した自民党本部の政治資金は、総額で335億5900万円である。うち政党交付金が46%、企業団体献金は35億4300万円。党費収入は12億9700万円。繰越金は78億6100万円。
自民党本部の支出は、政党支部への寄付交付金が105億1800万円で、これは各支部長を兼ねる衆議院議員や、その候補者への手当てとなっている。組織活動費が811億4000万円であり、このなかで国会議員には一人あたり夏の「氷代」として350万円程度、冬の「モチ代」として300万円が支払われる。選挙関係費は20億4000万円で、総選挙の公認料として一人あたり500万円が支払われる。人件費・事務所費などの経常経費が45億9400万円、宣伝事業費が32億5000万円だった。
2002年に発表された論文「全公開、私の資金・秘書・陳情処理」のなかで、山本一太参議院議員の2002年分の収入は年間4600万円だった。そのうち寄付が2000万円、党・派閥から1000万円、政党助成金が1500万円である。支出は4300万円であり、そのうち人件費が2000万円、事務所日が800万円、機関紙発行費が200万円である。
星浩氏が西日本選出の自民党中堅議員Aから匿名を条件に聞き取りをした結果、2002年の収支に関しては、まず政党助成金を含む収入を、党・派閥などから2000万円、パーティーで3000万円、残り5000万円を政治献金で集めた。支出は秘書が東京で3人、地元で5人、地元事務所は2箇所であり、人件費と事務所費経費で5000万円である。冊子配布など事務所費が3000万円、借金返済が2000万円、合計1億円となる。つき123万円の歳費からは各種議員連盟分担金、派閥経費などが引かれて、手取りは月数10万円であり、これは生活費に充てられる。
選挙戦
2000年以後、都市部における「どぶ板議員」の選挙が厳しくなる。酒屋も八百屋も大手スーパーの攻勢で商売にならないからである。後継者がいなくて店をたたむところが相次いでいるため、商工業者層の支持が得られないためである。2000年の総選挙で、東京で争った自民党の粕谷茂と民主党の長妻昭との選挙では、世論調査で長妻支持層の支持理由は「若いから」であるとわかり、粕谷は出馬を断念した。「マンションがオートロックになって、各戸訪問ができなくなったのは痛かった」と粕谷氏は述べている。
選挙の常套戦術は「業者の陳情を受け入れて規制を維持する」ものであったが、規制緩和が進み、そうした戦術がとれなくなりつつある。2003年に自民党の杉山憲夫は党団体総局長として選挙活動をしたが、理容業の組合から「最近安値の床屋が進出してきて、大人のカットを1900円でやるから商売にならない」と陳情があったが、一連の規制緩和で料金の安い業者の参入も認められているため、理容業者を選挙の票に結びつけることができなかった。
2000年の総選挙で当時の森喜朗首相は「無党派層は寝てくれればよい」と失言したため、無党派層を多く抱える大都市部の自民党陣営は痛手を受けた。粕谷茂や与謝野馨などは、そのあおりを食らって落選してしまった。
参議院議員の比例代表選挙は、2001年から非拘束名簿方式になった。そのため有権者は政党名か候補者名のどちらを書くか選択できるようになった。こうして政党名と候補者名の合計で各党の議席総数が決まり、各党の候補者のなかでは、個人名で得た表の多い順に当選することとなった。これで政党名の力を借りて当選するのは少し難しくなったが、ゼネコンを筆頭とする建設業などの力で、優遇されるものもいる。しかし初当選した小泉政権下における予算編成は、公共事業費を10%削減するものだったので、建設族の自民党員には逆風となった。
中選挙区下においては、得票総数の2割程度で当選が果たせる議員もいた。なぜなら中選挙区制では、ひとつの選挙区から3〜5人の当選者がでるからである。しかし小選挙区制になれば、ひとつの選挙区から1人しか選出されない。これは族議員を潰すことのできる制度である。族議員は、農業関係などの各分野の業者の支持を得て当選する議員だが、小選挙区制においては、その他の圧倒的多数の消費者に目を向けねばならなくなる。現状では、例えば2001年の小泉内閣の掲げた「無駄な道路は造らない」という公約が反古にされるなど、族議員の跋扈が続いている。ただ、小選挙区比例代表並立制に移行して以来、少しずつではあるが、族議員の体質も変化してきている。
迂回献金をするには、マネーロンダリングを行う機関が必要である。たとえば日本歯科医師連盟は、政治資金団体である国民政治協会を通じて自民党に献金を行っていた。1000万円の献金があった場合、自民党は手数料として200万円を差し引いた上で、組織活動費として800万円を議員側に支出するのである。
参考文献:自民党と戦後史